諦縁度(其の一)(指月慧印禅師『荒田随筆』参究27)
江戸時代の洞門が輩出した学僧・指月慧印禅師の主著である『荒田随筆』を学ぶ連載記事であるが、今回から上巻の最後の一章として、「諦縁度」章を学んでみたい。この「諦縁度」章だが、最初、意味するところを測り損ねていたのだが、要するに、四諦・十二縁起・六度という三乗の実践体系などを述べたものであろう。だとすれば、その三乗について詳しく述べられた道元禅師『正法眼蔵』「仏教」巻の説示などを、脇に置いて考える必要があるのかもしれない。ただ、それは実際の本文を見ながら検討していきたい。諦縁度悠悠として迷淪かな。是を群萌と謂、究竟じて之を覚する、是を大覚と謂。其の自覚して他を覚らしむるに、開諭暁示、引て以て道に至しむ。是を乗と謂なり。蓋し車輿の遠に及の義を取れり。而して乗、其の三を分つは、物機の利鈍に随て其の覚をして易からしめんと...諦縁度(其の一)(指月慧印禅師『荒田随筆』参究27)