聖書に基づくイエス様の救いの証をお語り下さい。短くても結構です。
11月25日 逡巡しながら、新潟たれかつ丼を食すことなど。
11月24日 遅読、積読。本のある雰囲気だけで自分は変容する。(「買ったが読んでいない本」からのアピールについて)
11月23日 本と私。(死生観)
11月22日 脈が弱く血圧測れず。。!!! ユングとフロイトと性欲について。
11月21西 かぜのたみさんの低コストライフに学ぶ! 食べるものは大体決まってきた。
11月20日 ぶちきれオバハンに遭遇&げんなりのことなど。
11月19日 グノーシス主義、グノーシス思想のPOINT.
11月18日 (永世厨二病患者談義) グノーシス主義に想う。
11月17日 極悪女王のこと。妬みと嫉みと不倫たたき。
11月16日 古本購入。
11月14日 私に根付く差別意識はどんな感じだろう。美と差別は非常に難しい関係だな、と思う事など。
11月15日 孤独とコミュニケーション。
11月13日 本を購入。
11月12日 我が三上。特に”厠上”のこと。
「アリス・イン・ワンダーランド」(ディズニー実写版)
求めよ、さらば与えられん、これぞ人の忍耐と信念と節操の試金石である。霊の書スピリチュアルメッセージ
人を生かすみことばの力1364 御霊に従う者は生きる❣️
互いに足を洗い合う命令(ヨハネの福音書13章)
人を生かすみことばの力1363 塩気を保ち平和に過ごす❣️
人を生かすみことばの力1362『望みを与える神の恵み』❣️ 11月24日 主日礼拝にて
黙6「 黙示録 1章-14〜20節」スティーヴンス栄子オメガバイブルスタディー受講メモ
人を生かすみことばの力1361 穏やかな心は体の命❣️
映画『神様メール』☆クズな神(汗)と余命一斉メールした娘(^^♪
人を生かすみことばの力1360 主が最後まで堅く保って責められるところがない者にしてくださいます
人を生かすみことばの力1359 神が望んでおられること❣️
イエスに足を洗って頂いたユダ(ヨハネの福音書13章)
イスラエルは聖書の成就にして神の変わらぬ愛のしるし
人を生かすみことばの力1358 われらの主イエスによって感謝する幸せ❣️
人を生かすみことばの力1357 神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け❣️
人を生かすみことばの力1356 私の助けは主から来る❣️
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑦自分からは一切逃れられない。雪峰義存と玄沙師備の話。では、 『普勧坐禅儀』本文の、 「大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、豈に修行の脚頭(きゃくとう)を用ふる者ならんや。」 という部分に触れて、 前回のポイント 親指を石ころにぶつければ「痛い。」これが全てである。外に求める必要は何もない今ここにある「自己」こそ真の仏法どんなに遠くに移動しようと、自分からは一切逃れる事は出来ない。つまり「仏」から逃れる事ができない。世界は「仏」。全ては仏。 以上の4ポイントをお伝えし
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑥寒山拾得と麻浴宝徹禅師の話を参考に「塵」や「埃」は払わなければならない。では、 『普勧坐禅儀』本文の、 「況んや、全体迥かに塵埃を出ず。孰か払拭の手段を信ぜん。」 という部分に触れて、 「塵」や「埃」を払う事で初めて、「塵」や「埃」の実物をとらえる事が出来る。「風」は至ることろにあるということを知っているが、仰いで初めて「風」が至る所にあるということを知れる。人間、誰しも「仏性」を持ち合わせているが、坐禅を実践することで初めて、「仏性」を持ち合わせているということを知れる
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑤慧能禅師の話を例に、「概念」の本質を探るでは、 『普勧坐禅儀』本文の、 「況んや、全体迥かに塵埃を出ず。孰か払拭の手段を信ぜん。」 という部分に触れて、 「塵」や「埃」というものは人間の概念でしかなく、その「概念」も含めた、我々人間の命を行じるのが「坐禅」である。 であるという事をお伝えしました。 今回も前回と同様、下の青いマーカー線で引いた、「況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。」という前回の部分をもう少し深
少しお久しぶりの更新となりました。 二月にコロナ感染ではなくコロナ禍で亡くなったボブ父さんの葬儀、無事に終わりました。 会場は葬儀社のチャペルです。 葬儀…
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ④命の「全体」を行じる道元禅師の坐禅。では、 『普勧坐禅儀』本文の、 「況んや全体逈(はる)かに」 という部分に触れて、 道元禅師のおすすめになる「坐禅」は転迷開悟の「手段」としての坐禅ではなく、「全体」の「坐禅」 であるという事をお伝えしました。 今回は、前回の内容も踏まえつつ、下の青いマーカー線で引いた、「況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。」という部分を読んでいきたいと思います。 それでは参りましょう。 別
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ③「仏法」とはみんなが乗ることの出来る乗り物では、 我々は生きながらに既にみな「仏(仏法)」という救いの世界にいるのにもかかわらず、何故、個人の救いを得ようとするのか。 という事をお伝えしました。 今回は、下の青いマーカー線で引いた、「況んや全体逈(はる)かに」という部分を読んでいきたいと思います。 それでは参りましょう。 別冊太陽「道元」出典「普勧坐禅儀」部分 大本山永平寺蔵『天福本』① 別冊太陽「道元」出典「普勧坐禅儀」部分 大本山永平寺蔵『天福本』② 別冊太陽「道元」
今、伯母が泊まりにきています。 今朝私が仕事へ行く準備をしていると、なんとお弁当を作ってくれました。 誰かが私のためにお弁当を作ってくれるなんていつぶりだろう。母が亡くなったのが10年前だから、もう10年以上も前のことだ。誰かが自分のためにお弁当を作ってくれることは、もう一生ないと思っていました。 職場でお弁当を開けて… 嬉しい。愛が染みる。 それで思い出しました。母が、癌との闘病生活をしていたとき、元気な時は私にお弁当を作ってくれていたこと。 当時は、結婚もしていなかったし子どももいなかったからそんな風に考えていなかったけど、お母さん、しんどいのに、自分が生きているうちに出来ることをしてやりたいって思ってくれてたんやろうな…って、お母さんの愛を思い出して目頭が熱くなりました。 今滞在している叔母は、私にとって第二の母。今伯母が長期滞在していて、なんか久しぶりに「母の愛」というものに触れて癒されています。 親を天国に見送って、自分の「実家」と言える場所がなくなって、なんか心から気抜いて甘えられる場所はもうないし、それは仕方ないって思ってるけど、今伯母がそれをくれてほんとに感謝しかない。
今日は私の親友の1人の誕生日です。その友人は、今は天国にいます。彼女が天国に行ってから初めての誕生日。 20年以上、お互いの誕生日をお祝いしあってきました。今年はなんでいないんだろう。やっぱり受け入れられなくて、悲しくてたまらない。 両親の死、兄の死、親友の死。大切な人の死を体験してきて感じること。「死」という一線を越えると、どれだけ泣いても、どれほど願っても、どんなに祈っても、戻ることができない。「死」は本当に突然やってきて、いとも簡単に大切な人を奪っていってしまうのに、でも戻ることはできない。 悲しいけれど、でも悲しみに目を向けてても仕方ない。だから、親友に出会えた奇跡に感謝しよう。親友がくれたいっぱいの思い出に浸ろう。親友の彩りある人生を思い出して過ごそう。 今日はこうして命があることだけで十分幸せなんだと感謝して過ごすはずが、おちびふたりに翻弄されている私の横でのんびりしている旦那に、いつも通りイッラー。イラッとせずに24時間過ごすことは実に難しい・・・。 ↓ランキングに参加しています。ぜひ応援のワンクリックお願いします。 #喪失 #グリーフ #死 #誕生日 #親友 #夫婦
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ②人間が生きる事、それはつまり「坐禅」を行じることでは我々の生命やそれにかかわる出来事は全て「円通」であり、一切行き詰まりがない今を生きている。という事をお伝えしました。 また、その観点から「生きる事はつまり坐禅を行じること。」という内容をお伝えしました。 今回は、下の青いマーカー線で引いた「宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。」という部分をメインに読んでいきたいと思います。 それでは解説していきたいと思います。 別冊太陽「道元」出典「普勧坐禅儀
ここでは「自由」とは何か臨済宗で有名な仏教学者の「鈴木大拙」氏の観点を参考に考えていきたいと思います。 我々は自由な命を生きているはずなのにいつも人間関係や仕事の問題で苦しんでしまう。 一体「自由」とは何なのか。 是非この記事を参考に、あなたが普段考える「自由」と比べて考察してみてください。 我々の「命」は大地と同時に救われている。 別冊太陽「道元」出典「普勧坐禅儀」部分 大本山永平寺蔵『天福本』 道元禅師のしるされた書物に「普勧坐禅儀」というものがあります。 その「普勧坐禅儀」本文の中に、 「宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。」 という文が出てきます。 その「宗
あなたへ 死別からの立ち直り こんな言葉を目にしたのは、 いつのことだっただろう。 いつの日か、あなたの死から立ち直れたと思う日は来るのだろうかと、 ぼんやりと、こんなことを考えていたのは、 あなたを見送ってから、どれくらいが経った頃だったでしょうか。 あの夏からの私は、時に、 体の一部が何処かへ行ってしまったような、 呼吸が半分しか出来ていないような、そんな感覚に囚われました。 私にとってのあなたは、日常の一部というよりも、 どこか体の一部になっていたのだと思います。 あなたは、私にとって、なくてはならないものでした。 それでも、私はいつか、 立ち直れたと、そう思える日が来るのかも知れないと…
本記事では道元禅師がしるされた「普勧坐禅儀」について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ①「普勧坐禅儀」の「普勧」とは?では冒頭の 「原ぬるに、夫れ道本円通、争でか修証を仮らん。」 の部分がこの「普勧坐禅儀」において非常に重要であるとお伝えしました。 そして今回も前回の引き続きとして、水色のマーカー線で引いた冒頭の「原ぬるに、夫れ道本円通、争でか修証を仮らん。」の部分を更に深堀りしていきたいと思います。 それでは早速まいりましょう。 普勧坐禅儀(訓読文) 原(たず)ぬるに、夫(そ)れ道本円通(どうもとえんづう)、争(いか)でか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。
「普勧坐禅儀」に入る前のご挨拶 「普勧坐禅儀」とは道元禅師によってしるされた嘉禄三年(1227年)に成立した書物で、当時の身分や生まれに関係なく、あまねく人々に「坐禅」の意義、行法を示した書物です。 中国の如浄禅師の元で、「身心脱落」をし、真実の仏法に巡り合えた道元禅師は、日本にお戻りになって最初に深草の安養寺、深草の興聖寺においてこの「普勧坐禅儀」を著しました。 その「普勧坐禅儀」には、道元禅師が中国からお戻りになって一番最初に書かれた「嘉禄本」、現在永平寺で所蔵されていて国宝にもなっている「天福本」、そして現代に我々が読むことのできる「流布本」、この3種類があります。 詳しくは 「坐禅」を
今回は、少し人間の「五感」についてお話できればと思います。 五感全てを駆使して、鐘の音を聞いている 我々人間というのは頭の中で線引きをする生き物です。 物事を対象化し、自分の概念で物事の価値を決め、判断をする生き物です。 スパッと線引きをし、「私と他人」、あるいは「出家と在家」など、そういう線引きをしてしまう生き物です。 我々には生まれ持ったこの「脳みそ」という思考を司る媒体があり、色々の事を考えるから、常に線引きをして分別をしてしまいます。 ここで少し、私の生家であり、実家のお寺のお話をさせていただきます。 9月のお彼岸の頃「金木犀の花」のかおりが漂う時期であり、そのお彼岸中は実家のお寺では
聖書に基づくイエス様の救いの証をお語り下さい。短くても結構です。
手相占いについてのテーマを作りました♪ お気軽にご参加ください!
目に見えて分野として、スピリチュアル×心理学を使って、健康になって幸せを目指せます。
成功への極意を伝えます。たったひとつの考動力で0〜無限を生み出す秘密を伝授し 人生が好循環に回り、自分軸であなたがあなたらしく生きていけます。
ここでは、「妖精」「妖精の森」「おとぎの國」についてのイメージを、共有し合います。どこかで見た絵夲やファンタジー小説、夢に出てきた世界など、何でも。 また、リアルに妖精の森のような未來を望む書き込みも大歓迎です。 但し、旧スピ的発想や、宗教の勧誘、政党政治の推進、メディアを鵜呑みにしたり恐怖を煽るような書き込みは、すべて却下します。
アフリカ出身の夫と国際結婚し、その生活の中で体験したり学んだり考えたりしています
「純粋な」哲学の話題であれば、何でもどうぞ。 宗教、スピリチュアル、ポエム、政治、社会問題は却下です。 科学哲学は認めます。 なお、オープンな議論を促進するため、コメント機能を有効にすることが望ましいです。
スピリチュアルに触れながらも、それに傾倒しない哲学・思想などを語ってください。 直接的なスピリチュアル批判の場合は、なるべく理性的にお願いします。 スピリチュアル的な考え方は好きだけどハマり過ぎるのは考えもの、という緩い準アンチの方も考えをお聞かせください。 スピリチュアルの構造の客観的な分析なども歓迎です。 みんなの理性を結集してスピリチュアルに対抗しましょう。 なお、オープンな議論を促すためにコメント機能を開放することが望ましいです。
自分を変えようとして苦しんでいる人は多くいます。実は自分を変えようとしていることが間違いなんです。そもそもそのそのままの自分で幸せに暮らすことができます。それができるならみんなそのままの自分で暮らしたいと思っていると思います。そんなそのままの自分で幸せに暮らすためのヒントを発信します。
「奇跡」を司るのが「神」 時間・空間・物質に「奇跡」が起きた。 生命は「奇跡」の連続 「大いなる意思」は「神の愛」 人間は皆、「神の子」です。