聖書に基づくイエス様の救いの証をお語り下さい。短くても結構です。
12/14(土)18:30~22:00 「東京ワーク参加募集」(夜間開催)
#Glimpse #Uprightness 【Monologue by Awakening 7】
『[禅的] 持たない生き方』 金嶽宗信
#ヒーリングの次元とカルマ 【11/16(土) 東京ワーク ~所感と解説~】
日本の家庭教育「質素倹約」の精神
11/16(土)18:30~22:00 「東京ワーク参加募集」(夜間開催)
#Saint #Prayer 【Monologue by Awakening 6】
食べるという日常
#今日のひとことブログ 禅語「真観清浄観」
『禅の知恵に学ぶ』 山川宗玄
#今日のひとことブログ 禅語「只管打坐」
無条件に徹底する
#ハートの爆発と号泣 【10/13(日) 東京ワーク ~所感と解説~】
『碧巌録』より 第十六則 鏡清草裏漢 / 鏡淸啐啄機(その3)
「天蓋花の白き輝き」
ここ数回の記事では、「篤胤の天竺論」を論じている。篤胤は、仏教の開祖である釈迦牟尼仏が活動したインド(天竺)のことを明らかにすることで、日本との差異を示し、当然に仏教については、宗教としての日本での有効性の無さを示そうとしていると推定される。よって、篤胤なりのインド分析が語られたのである。それはまづ彼国の人物に四つの差別がある。是をまづ心得にやなりませんが、夫はちやうどこちらの詞にたとへば士農工商と云やうなわけでござる。まづ第一を刹帝利といふ、これは代々王となるべき家柄で、則月氏七千余国の国々の王となつているのでござる。第二を婆羅門といふ、是は翻訳していへば浄き行と云ことで、則浄行とかく詞で国柄相応に有り来つた学問もして、段々家を伝へるものでござる。第三を毘舎と云ふ、これは商人でござる。第四を首陀と云、是は農業...篤胤の天竺論(4)(拝啓平田篤胤先生8)
連載は21回目となる。『養老律令』に収録されている『僧尼令』の本文を見ているが、『僧尼令』は全27条あって、1条ごとに見ていくこととした。まずは、訓読文を挙げて、その後に拙僧なりの解説を付してみたい。なお、『令義解』の江戸期版本(塙保己一校訂本・寛政12年[1800]刊行、全10巻で『僧尼令』は巻2に所収)も合わせて見ていきたい。凡そ僧尼に犯有り、格律に准ずるに、徒年以上なるべくは、還俗せよ。告牒を以て徒一年に当つること許せ。若し余の罪有らば、自ら律に依りて科断せよ。如し百杖以下を犯せば、杖十毎に苦使十日せしめよ。若し罪の還俗に至らざらん、及び還俗すべしと雖も判じ訖らずは、並に散禁。如し苦使の条制の外に、復罪を犯して還俗に至らずは、三綱をして仏法に依りて事を量りて科罰せしめよ。其れ還俗し、并せて罰せらるる人は、...第二十一条・准格律条(『僧尼令』を学ぶ・21)
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載26回目である。1〔26〕教皇の鍵の権能(もちろん教皇はこの権限を煉獄ではもっていないのであるが)によってではなく、とりなしの行為〔代理の祈りとしての代禱〕によって魂に赦しを与えるのは最もよい行いである。深井氏下掲同著・20頁まず、番号が1に戻っている(〔〕内の通し番号は、訳者による付加)が、これは当時の印刷技術の関係であり、内容には関係が無いとしている(深井氏下掲同著・42頁の註記参照)。それから、「教皇の鍵の権能」という話だが、これは、有名な話で、『マタイによる福音書』でイエスは、後に初代のローマ教皇とされるペトロに対し、「わたしは、あなたに天国の鍵を授けよう。そして、あなたが地上でつなぐ...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・26
せっかく、彼岸会の俳句について検討してみたので、併せて、「彼岸」を季語にした俳句を紹介してみたい。ああ寒いあらあら寒いひがん哉小林一茶まずは、小林一茶(1763~1828)である。そこで、この内容だが、彼岸会になっても、とにかく寒い、寒さばかりが伝わってくる内容である。ここまでの寒さ、例えば、「暑さ寒さも彼岸まで」ということわざを思うと、ちょっと大袈裟に過ぎるのではないか?と思っていたが、どうやらこれは春の彼岸会であるらしい。なるほど、それであれば、例えば東北地方などでは一部で、春の彼岸会の時期にも雪が降ったりするから、そういうことを指しているのかもしれない。一茶自身は、江戸や各地への遊学をしているけれども、出身地などは北信濃とされているので、場合によってはこの俳句の通りだったのだろう。我国は何にも咲かぬ彼岸哉...或る彼岸の句について(令和3年度秋)
皆さんは「一遍上人(いっぺんしょうにん)」をご存知でしょうか? 今回はこの「一遍上人」の「詩」を題材として、この世界の真実の有り様について考えていきたいと思います。 この記事を書いているのは こんにちは「harusuke」と申します。大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内でサラリーマンをしております。 当事者も傍観者もない「真実の世界」 イラスト画・吉田義晃氏より出典 「時宗」を開いた「一遍上人(いっぺんしょうにん)1239-1289」という方がおります。 この「一遍上人」の本当の名前は明らかになっておりませんが、幼いころの名前は「松寿丸」であったとされております。 かの「法然聖
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 公案現成(こうあんげんじょう)、籮籠(らろう)未だ到らず。若(も)し此の意を得ば、龍の水を得たるが如く、虎の山に靠(よ)るに似たり という部分を読んでいきたいと思います。 始めに前回の、道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉓「修行」がそのまま「悟り」の証明である。のポイントを振り返りましょう。 前回のポイント 「菩提」とは悟りの意。「究尽」とは究め尽くすの意。「修証」とは行いの証明の意。「悟り」は「修行」によって証明される。つまり「悟り」とは「修行」のことで、それぞれに分かれない。 それではポイ
そこで、今回は或る僧侶が指摘している、彼岸の句について採り上げておきたい。昔の句に「善き種を蒔きて置きたき彼岸かな」又「仏説も花より団子の彼岸かな」などと云ふのがあります。道重信教上人「御彼岸会の因縁」、『人一代の修養』(中央出版社・昭和3年)174頁何故この句を採り上げたかといえば、特に前者の句を見ていただければ分かるけれども、昨日までに紹介した「今日彼岸菩提の種をまく日かな」に類似しているためである。「菩提の種」と「善き種」という言い方こそ違えど、結果として得ようと思っている事柄は同じであると言って良い。それで気になるのは、この道重信教上人(1856~1934)が紹介しようとしている句の作者などである。上人自身は、「昔の句」としているから、上人自身の作では無いことは明らかである。この道重上人は、かの元モーニ...或る僧侶が採り上げた彼岸の句(再掲載)
※この記事は2019年に一度掲載したが、修正・編集の上で再掲載するものである。「今日彼岸菩提の種をまく日かな」の俳句について、彼岸の法話に用いる僧侶が多いようだが、ネット上に記載された作者名を見ると、主として「1:松尾芭蕉説、2:与謝蕪村説、3:昔の人説」の3種類があると分かった。しかし、そうなると、俳句として一部の人達にとても有名なのに、意外と作者が知られていないという奇妙な状態であることが分かったわけである。これは、記事にするしかあるまい、というので、検討結果をアップしたのであった。そこで、以前調べたときには全くヒットしなかったのに、改めてネットで調べたところ、【「575筆まか勢」さん】というブログの2016年の記事で、この俳句の作者は馬場存義という人であるという指摘があった。ただし、そのブログでは、「種蒔...「今日彼岸菩提の種をまく日かな」の作者確定(再掲載)
羅入現代水墨画展 本展は、羅入による滋賀県で初となる個展です。 現代水墨画を中心に立体作品を交えた羅入の 根源世界に触れていただければと思います。 2021年9月26日まで 観峰館 滋賀県東近江市五個荘竜田町136
※この記事は2013年に一度掲載されたが、修正・編集の上で再掲載した。或る知り合いから、この俳句(?)の作者について聞かれた。今日彼岸菩提の種をまく日かなで、何を聞かれたかといえば、「これ、松尾芭蕉の句だっていうんだけど、本当?」というものであった。実は、それまでお寺の掲示板に、彼岸の時期には何の疑いも無く掲示していたが、松尾芭蕉の何という句集に載っているのか分からないので、教えて欲しいということであった。それで、ネットで調べてみると、確かにかなりのサイト・ページがヒットする。だが、意外なことに、作者については以下の3つの傾向があった。1:松尾芭蕉説2:与謝蕪村説3:昔の人説これは、ヒットした順番とその数を勘案して挙げてみた。確かに、松尾芭蕉だとする人が多いが、与謝蕪村も一定量ある。後は、フワーッと、「昔の人」...或る彼岸の句について(再掲載)
今日は中秋の名月である。それは、旧暦の8月15日に当たり、旧暦の場合、基本として15日を満月とするので、中秋の名月になるわけである。今日という日は、禅僧たちが自らの境涯を漢詩として詠むこともあった。その一首を紹介したい。中秋の上堂に云く、中秋月中秋月、古今尽く謂く尋常とは別なりと。別と不別と、皎皎たる清光大千に遍しし。任従あれ天下紜紜の説。『法演禅師語録』巻中まず、こちらを詠まれたのは中国臨済宗の五祖法演禅師(?~1104)という人である。「五祖」と付いてはいるが、決して中国禅宗五祖を意味しているのではなく、化を振るったのが五祖弘忍禅師がいた黄梅山(五祖山)だったことから、このように呼ばれている。なお、中国宋代の禅宗に詳しい人なら、もちろんこの人の名前は良く見ると思うが、そうでもない人にとっては、弟子の方が有名...9月21日中秋の名月(令和3年度版)
今日9月20日は秋の彼岸会の入りの日であるが、カレンダー上は敬老の日でもある。今回は敬老ということで、仏教に於けるそれを見てみたい。老を敬い幼きを慈しむや否や。『禅苑清規』巻8「一百二十問」この『禅苑清規』の「一百二十問」というのは、僧侶として特に120項目について、正しく実践できているかどうかを確認するための問いである。ただ、質問項目だけが書かれているので、具体的にどのように活用されていたかは分からない。しかし、「亀鏡文」「誡沙弥」などの項目に挟まれているので、おそらくは初学者に尋ねたもの、或いは初学者が自問自答するようなことだったのかもしれない。そこで、その120項目の内、まさに「敬老」というべき内容が上記一問である。今更訳す必要も無かろう。さて、それでは仏教に於いて、何故老を敬い、幼きへ慈しみの心を持つべ...9月20日敬老の日(令和3年度版)
以前に、【鑑真和上による戒律伝来の一事について】という記事を書いたときに、鑑真和上が開いた唐招提寺に於ける「戒壇」について、和上の後継者などによる見解、例えば沙門豊安『戒律伝来記』巻上などでは、重要な位置付けとなっていることを確認した。しかし、どうも後代の文献を見ると、そこまででもない印象を得るため、今日は鎌倉時代に於ける関連事項を見ていくことで、唐招提寺の戒壇の位置付けについて検討してみたい。問う、日本の三処に立つる所の戒壇、皆同一なるや。亦た異なること有るや。答う、東大寺の戒壇、中国の法式に準じて十人受戒を行じて、今も改めず。招提寺の戒壇、其の義亦た同じ。東国下野国薬師寺の戒壇、并びに筑紫観世音寺の戒壇、并んで辺国に準じて五人受を行ず。東国薬師寺の戒壇、中古已来廃怠して行ぜず。西国観世音寺の戒壇、昔より亦た...凝然大徳『雲雨鈔』に見る日本仏教戒壇論
日常的に食べる人も多いであろう、日清カップヌードルの誕生は1971年9月18日だったらしく、結果として今日は、カップヌードル誕生から50周年となる。・「カップヌードル」ブランドが、発売50年目に世界累計販売500億食を達成(日清食品ホールディングス)それで、当然にカップに入ったラーメンを食べるのがカップヌードルなので、今日という日は仏典に見える「麺」について調べてみた。餅とは、小麦の麺にて作し、大麦の麺にて作し、粳米の麺にて作し、大重華餅、小重華餅,是の如きは、比に諸もろの清浄餅なり。『十誦律』巻13「九十波逸提之五」ここで、「?」となった。麺というのは、いわゆる小麦をこねて生地を造り、それを薄く延ばして切ったものを意味すると思うのだが、ここでは「餅」の説明に、「小麦の麺」「大麦の麺」、ここまではまだ理解出来る...今日で日清カップヌードル誕生から50周年
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 菩提を究尽(ぐうじん)するの修證(しゅしょう)なり。 という部分を読んでいきます。 始めに前回の、道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉒「坐禅」は個人のならいごとではないのポイントを振り返りたいと思います。 前回のポイント 「坐禅」はピアノを習ったり、水泳を習ったりというような個人の「習い事」ではない。「坐禅」は生命の実践。「生命の実践」において、その足の痛みは誰とも比較できない。本来誰とも比較できない生命を生きている人間。坐禅における生命の実践は「大」でも「小」でもない、「真実」。「坐禅」は足
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 所謂(いわゆる)坐禅は、習禅には非ず。唯、是れ安楽の法門なり。 という部分を読んでいきます。 まず前回の、道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ㉑人生の教科書。本来の命を生きる為に「坐禅」を行う。を振り返りたいと思います。 前回のポイント 「不思量底を思量せよ」とは「思わないところを思え」の意味。「不思量底を思量せよ」とは「生命の実物をしっかり抑えなさいということ。つまり「思う」という行為は大自然の行いであって自分ではどうすることもできないからそのままにしておくのが本来の形しかし現代の人間はこの「
日本でも、鎌倉時代に成立した『沙石集』などを見てみると、「無言上人」に関することなどで、他の人に引っ張られて、自分自身も過ちを犯すことがあり得ることが理解出来るが、今回紹介する記事もまた、そのようなものかもしれない。拾得、国清にて半月に念戒する衆集するを見る。拾得、拍手して云く、頭を聚めて作想す、那の事をか如何。維那、之を叱る。得云く、大徳且く住す。瞋無ければ即ち是れ戒、心浄なれば即ち出家なり。我れ即ち你と合し、一切の法に差無し。『聯灯会要』巻29「応化賢聖」まず、これは中国唐代にいたとされる伝説の詩僧、寒山・拾得の拾得についての逸話である。拾得が、中国天台山の国清寺にて、半月に一度「念戒」するために、修行僧が集まっている様子を見たという。この「念戒」とは、半月に一度行われていることから、いわゆる「布薩」である...人の振り見て我はどうする?
とりあえず、以下の一節を見ておきたい。六時に於いて語笑することを得ざる法・第十五〈六條〉一には礼仏。二には聴法。三つには衆集。四つには大食。五つには小食。六つには大小便。『教誡新学比丘行護律儀』実は、貞享3年(1686)・永田長兵衛開板本が手に入ったので、改めて全体を見直していたのだが、ここを見ていて、なるほどこれは「六黙道場」だと思ったので、記事にした次第である。もちろん、【三黙道場】というのは聞いたことがある人も多いと思うのだが、道宣の指摘では、道場という「場所」というよりも、自らの行為に即して行われるべき「黙」である。そこで、ここで問題視されているのは「語笑」ということで、修行僧同士で世間話をして談笑することなどを指すことは明らかである。では、そのような「語笑」が禁止されている機会とは何かといえば、一つは...南山道宣が示す六黙道場
日本の近代仏教では、まだ国家からの認可制だったということもあり、宗派がどんどん増えるという状況では無い。そのため、近代仏教時に於ける宗派数として、十三宗五十六派という数え方があるのだが、この記事で気になるのは、「十三宗」の部分である。具体的には、以下の通りである。●奈良仏教1:法相宗2:華厳宗3:律宗●平安仏教4:天台宗5:真言宗6:融通念仏宗●鎌倉仏教7:浄土宗8:浄土真宗9:臨済宗10:曹洞宗11:日蓮宗12:時衆●江戸仏教13:黄檗宗そこで、例えば、鎌倉時代の東大寺の学僧・凝然大徳(1240~1321)は『八宗綱要』を記したが、その宗は以下の通りであった。1:倶舎宗2:成実宗3:律宗4:法相宗5:三論宗6:華厳宗7:天台宗8:真言宗ただし、凝然大徳は、奈良時代の南都六宗に平安時代の宗派を入れつつ、同時代的...日本の仏教は八宗?十宗?十二宗?十三宗?
或る種の試論である。よって、残念ながら、何かを明らかにした記事ではない。問題意識としては、仏陀自身が生きておられる間は、当然に仏像などというものは必要は無かったわけである。もちろん、だからこそ、嵯峨の清凉寺にある釈尊像などは、その釈尊が天上界を教化する際に、一時的に地上を離れることを悲しんだ王が、その代わりに作ったものの写しだという伝承があるが、これは釈尊の不在こそが、仏像の建立に繋がることを示した逸話であるといえる。そのことを思う時、仏像についての話が出ている経典などは、釈尊入滅後であるとは思われ、また、当然に大乗経典に多く見られるかと思う。その時、とりあえず以下の一節などを見ておきたい。世尊、若し復た人有りて、七仏の名を持し、彼の仏の本願功徳を憶念し、并びに此の呪を持して、読誦・演説せん。我れ彼の人の願う所...仏像を礼拝した最初の僧侶は誰か?
以前に【「坐具」は何のために使うのか?】の記事を書いたとき、義浄の『南海寄帰伝』の記述に導かれるように、坐具(尼師壇)の用い方について簡単に考察したが、義浄は坐具について、本来は礼拝の時に敷くのは間違いだと指摘している。そうなると、ここで2つの疑問点が出てくる。1つは、坐具については本当に礼拝に使えないのか?2つは、では礼拝の時に敷く法具は何だったのか?ということである。前者については、坐具に関する記述を丹念に学ばないと分からない。後者については、義浄も少し述べてくれているが、それを更に学ぶ必要がある。よって、これらを課題にしつつ、少しでも理解を深めるためにこの続編の記事を用意した。まずは、坐具(尼師壇)について、もう少し色々と学んでみよう。長老梨婆多、亦た座房に向上し、入り已りて頭面もて上座の足を礼し、臥具上...続・「坐具」は何のために使うのか?
「大乗仏教」は、釈迦の時代の戒律を守る仏教を「小乗」って呼んで、ちょっと蔑んでるって話を聞いたことがあるよ。これってどうしてなの。どちらも仏教の教えじゃないの?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『文殊菩薩の真実に迫る』(幸福の科学出版)で、大乗の祖と言われる文殊菩薩の霊の言葉(霊言)を、このように伝えておられます。それは、現代でいうと、PR戦略とか、マーケティング戦略とかに当たるものかもしれません。「自分たちの存在を、どういうかたちでPRし、広げるか」ということには難しいものがあるので、基本的には、宗教的な法戦、ないしは、論戦、批判というかたちで、PRをするわけです。他教団についてもそうですし、仏教のなかでもそうです。仏教は、和合僧破壊の罪を定めているものの、仏陀滅後、十八部から二...小乗仏教って?
この辺、ざっくばらんに言えば当方の【木魚―つらつら日暮らしWiki】をご一読いただければ良いことなのだが、思うところがあったので、記事にしてみた。そこで、問題意識としては、現行、我々が「木魚」と思っている法具は、江戸時代に隠元隆琦禅師が伝えた黄檗宗が、持ってきたものだとされている。ただし、その根拠は今ひとつ分からないので、予備的な考察ということで、記事にしてみたい。まず、木魚について、別には「梆」と呼ばれ、更には「魚鼓」などとも呼称されるものである。そして、その用例としては以下のものなどが知られていると思われる。次に木魚を打つ、衆僧集定するなり。『禅苑清規』巻6「警衆」項以上の通りで、これは食事作法に関わることだが、修行僧が食事場所である僧堂に集まる合図に関連した記述である。この場合の「木魚」は「梆」に同じであ...「木魚」と「木魚」の話
米大統領、同時テロ現場で追悼へ発生から20年、全3カ所(共同通信)追悼のNY、遺族ら祈りテロ20年控え跡地に葬送曲(共同通信)9月11日、アメリカ合衆国のバイデン大統領が、2001年のアメリカ同時多発テロ(米中枢同時テロ)から20年となる節目の日、犠牲者追悼のためニューヨーク市の世界貿易センタービル(WTC)跡地など現場となった3カ所全てを訪れるそうです。バイデン氏は「グラウンド・ゼロ(爆心地)」と呼ばれるWTC跡地と首都ワシントン近郊の国防総省、東部ペンシルベニア州シャンクスビルを訪問するとのことです。それにしても、あのテロから20年ですね。・(1)米国同時多発テロの発生(外務省)9月11日、4機の米国国内線民間航空機がほぼ同時にハイジャックされ、米国の経済、軍事を象徴する建物に相次いで突入する自爆テロが行わ...9.11から20年
道元禅師の『普勧坐禅儀』は、在家の者、出家の者問わず普く人々に「坐禅」とは何か?その坐禅の「意義」と「作法」についておしるしになった「坐禅の奥義書」であります。 その『普勧坐禅儀』の一文で次のようなものがあります。 箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底(ふしりょうてい)、如何(いかん)が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。 この一文はこの『普勧坐禅儀』において非常に大切な箇所であり、先人たちや現代の僧侶のバイブルとして古来より受け継がれてきました。 今回本記事では恐れ多くもこの「不思量底」とは何か?を参究してまいりたいと思います。 以下の記事でも軽く今回の「不思量底」について触れており
心の疲れをとるのに一番大切なことは「睡眠」
「SNS疲れの脳内ストレスの原因と対策」
日高 千香子 ~ どんな悩みも受け止めてくれる、心理に関する知識に長けた先生
北原 きょうこ ~ 心にのしかかった重い荷物を軽くしてくれる、優しい声のお姉さん
赤の他人と話すメリット
富士山を、走って登る超人な60歳の秘訣は偽笑い
今日を存分に楽しめるようになる魔法の言葉💖今日のスピリチュアルメッセージ‼️
卓球全国予選会と親子でオープン大会参戦しました(^_-)-☆
休日に作る感謝リストは、今週の心の肥やし
笑顔って素敵なんだよ!💖今日のスピリチュアルメッセージ!
マインドフルネスは偏りのない生き方を教えてくれる
書いてストレス発散
【実飲レビュー】横濱みなと珈琲を飲んでみた!その味と香りに感動
誰かと話がしたい時って
女と話がしたいんじゃ
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底(ふしりょうてい)、如何(いかん)が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。 という部分を読んでいきます。 まず前回の、道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ⑳「坐禅」における正しい呼吸法とは?のポイントをおさらいしておきたいと思います。 前回のポイント 坐禅においての「呼吸」はコントロールしない、出来ない仏祖の「調息」は「呼吸」をコントロールせず、ただ背筋を伸ばしただけの自然に行われる大自然の「呼吸」。「坐禅」は大自然の上に乗った大きな「岩」のようなもの
中国で編まれた菩薩戒儀軌に関する文献を見ていると、「大鵬鳥」の話が出てくることに気付いた。第一、趣道勝なり。菩薩戒を受けるは、大鵬鳥の一たび翅を挙して、能く十万九千余里に至るが如し。菩薩の道に趣くは、亦復た是の如し。法華経に云く、此の宝乗に乗りて、直に道場に至る。霊芝元照『芝苑遺編』巻中「授大乗菩薩戒儀」調べてみると、この一節は中国天台宗の伝説的開祖とされる南嶽慧思に係るともされる『受菩薩戒儀』からの引用(やや文章を変える)のようだが、ここで、菩薩戒を受けると「大鵬鳥」のようであるという。そして、その鳥が一気に長大な距離を飛ぶように、菩薩が戒を受ければ道に趣くという。ところで、「大鵬鳥」というのは、中国で伝えられる伝説の鳥(鵬)で、大変に大きいことから「大鵬」と表記される。ところで、この「大鵬鳥」は、更に以下の...菩薩戒儀軌に於ける「大鵬鳥」の喩え
今日9月9日は、重陽の節句である。ただし、いわゆる五節句は旧暦(太陰暦)に併せて定められているため、新暦には今一つ適合しない。例えば、重陽の節句は別に「菊の節句」ともいうが、いわゆる秋菊は10~11月が本来のシーズンである。また、これもよく知られたことかもしれないが、五節句は明治時代に一度廃止されている。○儀式第一号〈一月四日〉今厳改暦ニ附人日上巳端午七夕重陽ノ五節句ヲ廃シ神武天皇即位日天長節ノ両日ヲ以テ自今祝日ト被定候事第二十九号〈一月廿二日〉来ル廿九日神武天皇御即位日相当ニ付御祭典済後宴会被為行候事第九十一号〈三月七日〉神武天皇御即位日紀元節ト被称候事『布告類篇(明治六年)』(記録課、明治7年)巻1・42丁表~43丁表以上の通りであるが、明治時代に入り、祝祭日を天皇制に合わせるために、五節句などを廃止したの...今日は重陽の節句(令和3年度版)
「坐具」というのは、中国北宋代の霊芝元照(1048~1116)が著した『四分律行事鈔資持記』巻下一「釈二衣篇」で、「坐具、中梵に云く尼師壇、此に翻じて随坐衣なり」とあるように、「随坐衣」というものだと思っていたし、当方も基本はそういう使い方をしていたように思うのだが、そういえば、坐具は坐るときに敷く法具とは別の利用法もしていたことを思い出しつつ、それについて問題視している場合があるようなので、見ておきたい。二十一坐具儭身礼拝に其の坐具を敷くこと、五天に見行せざる所なり。致敬を起して三礼を為すに、四部に其の事を窺うこと罔し。凡そ礼を為す者、拝敷法式、別章の陳ぶる所の如し。其の坐具の法、割截して之を為る。必ず須く複に作るべく、制して葉を安ぜしむ、度量、詳悉するに暇あらず。其の須る所は、但だ眠臥の時、他の氈席を護るに...「坐具」は何のために使うのか?
こんな一節を見出した。問う、菩薩戒の師、在家人を用いると為すや、出家人を用いると為すや。答う、道俗に通ず。瓔珞経に云く、夫妻六親、互いに師と為ることを得るなり。吉蔵『勝鬘宝窟』巻上之末さて、この一節を見る限り、菩薩戒を授ける「戒師」には、在家人でも出家人でもなれるとしている。そして、その根拠として『菩薩瓔珞本業経』の一節を挙げている。これは以前、【『菩薩瓔珞本業経』の「夫婦六親得互為師授」について】という記事で紹介した通りである。そして、中国三論宗の吉蔵(549~623)は、それまでに中国で成立していた『瓔珞経』を用いて、上記の結論を見出している。ところで、いつも思うことだが、菩薩戒を受けることとは本来、菩薩以外から菩薩にするための受戒であって、例えば在家から出家へ、という立場の移動を意味するのではない。それか...菩薩戒の戒師とは出家者か?在家者か?
『宝物集』という文献は、平安時代末期の平康頼によって書かれた仏教典籍であるが、非常に独特な内容であり、しかも、その後にも多くの影響を与えたと思われるのである。本書には阿弥陀仏のおわします極楽浄土に往生するための、「十二門」が立てられている。そして、その中に「第三戒をたもち仏になるべし」という一門では、冒頭に以下のように戒を護持する功徳を説く。如来の禁戒の城にいりぬれば、見思・塵沙・三毒・五蓋・十使・九十八煩悩・八万四千の悪業のいくさ、若干の勢をおこしてせめ来るといへども、またくおとさるゝ事なし。このゆへに、梵網経は、「持戒の人は、浄土人天の報をうく」といへり。岩波新古典文学大系『宝物集(他)』193頁それで、ここで引用されている『梵網経』だが、現行よく知られている文献からではよく分からない。どうも、同じ文脈は無...『宝物集』に見る持戒について
ちょっとした備忘録的記事である。タイトルの通りなのだが、日本に臨済宗黄竜派の法系を伝えた明庵栄西禅師(1141~1215)に於ける比丘戒と菩薩戒との関係について、考えてみたい。それで、良く知られているのは、以下の一節であろう。時に、炎宋淳熙十四年丁未の歳なり。即ち天台山に登り万年禅寺に憩いて、堂頭和尚敞禅師に投じて師と為す。参禅して道を問い、頗る臨済の宗風を伝う。四分戒を誦し、菩薩戒を誦して已に畢んぬ。遂に宋の紹熙二年辛亥の歳の秋七月に帰国す。栄西禅師『興禅護国論』「第五宗派血派門」中国へ留学し、虚庵懐敞禅師に参じた栄西禅師は、中国で『四分律』に基づく戒を「誦」し、菩薩戒も「誦」したという。これは、菩薩戒の戒本を唱えて師である虚庵懐敞から受けたと理解出来るだろうか。「誦」することが、どういう意味を持つのか、まだ...明庵栄西禅師に於ける比丘戒と菩薩戒について
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 鼻息(びそく)、微かに通じ、身相(しんそう)既に調へて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(ようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、 という部分を読んでいきます。 それではまず前回の、道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ⑲道元禅師がお示しになる「坐禅作法」とは?のおさらいをしておきたいと思います。 前回のポイント 「坐蒲」や「坐褥」を用いる理由は腰を高くし、安定して長時間坐る為。「結跏趺坐」、「半跏趺坐」、そのどちらであっても構わない。そのどちらであっても「足首」をしっか
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 尋常(よのつね)、坐処には厚く坐物(ざもつ)を(と)敷き、上に蒲団を用ふ。或(あるい)は結跏趺坐、或は半跏趺坐。謂はく、結跏趺坐は、先づ右の足を以て左の腿(もも)の上に安じ、左の足を右の腿(もも)の上に安ず。兩(りょう)の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相(あい)拄(さそ)ふ。乃(すなわ)ち、正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の腭(あぎと)に掛けて、脣歯(しん
タイトルの一件について、一度文脈を見ておきたいと思っていたので、この記事で採り上げてみたい。たいがい、「声聞の持戒は……」を検討する場合、該当する文脈しか引かれないが、今回は全体を見直してみたら、ちょっと面白かったので、確認してみたい。なお、【(2)】の続きである。〈以上は前の記事〉云何が、菩薩の開遮戒を持し、声聞乗の人唯だ遮戒のみを持すると為すと名づくや。若し諸菩薩、大乗中に於いて修行を発趣して、日の初分の時、犯戒する所有れども、日の中分に於いて一切の智心を離れず、是の如くの菩薩の戒身、壊せず。若し日の中分に犯戒する所有れども、日の後分に於いて一切の智心を離れず、是の如きの菩薩の戒身、壊せず。若し日の後分に犯戒する所有れども、夜の初分に於いて一切の智心を離れず、是の如きの菩薩の戒身、壊せず。若し夜の初分に犯戒...『大宝積経』巻90に見る「大破戒」について(3)
今日9月2日は、語呂合わせで「くじの日」らしい。・9月2日は「宝くじの日」!(宝くじ公式サイト)以上の記事の通りなのだが、今回は「くじ」について書いてみたいと思う。仏教に関わるくじは様々あるが、今日はあみだくじを紹介しておきたい。あみだくじというのは、皆さんよくご存じだと思うが、元々は若干形が違っていたらしい。今は、くじに参加する人数分のタテ線を平行に引き、その間を横線で繋いで、参加者が必ず1人1本を選ぶと、結果は必ず異なるものとなる。その行き先で当落を判断するというくじである。ところで、元々あみだくじは異なる形をしていて、それは全体で放射線状に直線を引き、それを参加者が選んで当落を判断した。あみだくじというのは、この後者の形に由来している。あみだという名称は、阿弥陀仏のことであるし、具体的には阿弥陀仏の光背を...9月2日くじの日
今日は9月1日である。中国や日本では、一部で、6月1日から真夏の時期の坐禅を「随意坐禅」とし、それを9月1日に解消して、また「普請坐禅」として修行を行ったという。そこで、中国禅宗の語録を見てみると、以下のような記述が目に付く。上堂。今朝九月初一なり。板を打して普請坐禅す。第一に切に瞎睡を忌み、直下に猛烈なることを先と為し、忽然として漆桶を爆破し、豁きこと雲散する秋天なるが如し。『如浄和尚語録』巻上このように、中国南宋代の禅僧・天童如浄禅師(1162~1227)は、九月一日から木版を打って、しっかりと坐禅が始まる合図を示すことで、「普請坐禅」するという。更には、少し後の時代だが、以下の教えも見える。今朝九月一、板を打して坐禅す。首座、之れを表率すると謂う。『雪巌和尚語録』巻2これは、中国臨済宗の雪巌祖欽禅師(12...九月一日坐禅板を鳴らす
聖書に基づくイエス様の救いの証をお語り下さい。短くても結構です。
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ここでは、「妖精」「妖精の森」「おとぎの國」についてのイメージを、共有し合います。どこかで見た絵夲やファンタジー小説、夢に出てきた世界など、何でも。 また、リアルに妖精の森のような未來を望む書き込みも大歓迎です。 但し、旧スピ的発想や、宗教の勧誘、政党政治の推進、メディアを鵜呑みにしたり恐怖を煽るような書き込みは、すべて却下します。
アフリカ出身の夫と国際結婚し、その生活の中で体験したり学んだり考えたりしています
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自分を変えようとして苦しんでいる人は多くいます。実は自分を変えようとしていることが間違いなんです。そもそもそのそのままの自分で幸せに暮らすことができます。それができるならみんなそのままの自分で暮らしたいと思っていると思います。そんなそのままの自分で幸せに暮らすためのヒントを発信します。
「奇跡」を司るのが「神」 時間・空間・物質に「奇跡」が起きた。 生命は「奇跡」の連続 「大いなる意思」は「神の愛」 人間は皆、「神の子」です。