聖書に基づくイエス様の救いの証をお語り下さい。短くても結構です。
幼少期の記憶に温もりが加わって自然と涙が溢れました・・・ヒプノセラピー体験記
夫や親、身近な人になればなるほど、上手く出来ない・・・スマイル講座のご感想
クローゼットで運気アップ♪
自分の不完全を許す
フライングスター(玄空飛星派)風水/11月チャート分析 VOL1
健康な心とは?
自己受容できていますか?~自分の良さに気づかせてくれる仲間に感謝
全ダイエッターを敵にまわす勇気、 の、回。
【noteの裏面②】自己受容から始まる自分らしい人生創造
悩みや問題を抱える一方で、望みを叶えていく♪
ながやままなみトレーナーとトークライブ打ち合わせ!
フライングスター(玄空飛星派)風水/10月チャート分析
【自己受容】誰かに「頼る」「甘える」って?
【自己受容】コンプレックスも過去も、今の自分の一部
【ご感想】「長女気質」って、何?(長女にもいろんな人がいるわけで)
人を生かすみことばの力1361 穏やかな心は体の命❣️
映画『神様メール』☆クズな神(汗)と余命一斉メールした娘(^^♪
人を生かすみことばの力1360 主が最後まで堅く保って責められるところがない者にしてくださいます
人を生かすみことばの力1359 神が望んでおられること❣️
イエスに足を洗って頂いたユダ(ヨハネの福音書13章)
イスラエルは聖書の成就にして神の変わらぬ愛のしるし
人を生かすみことばの力1358 われらの主イエスによって感謝する幸せ❣️
人を生かすみことばの力1357 神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け❣️
人を生かすみことばの力1356 私の助けは主から来る❣️
闇のなかで成就してゆく十字架の救い(ヨハネの福音書12章)
人を生かすみことばの力1355 疲れた者には力を与え精力のない者には勢いを与えられる❣️
人を生かすみことばの力1354 『安心して生きる』❣️ 11月17日 主日礼拝にて
黙5「 黙示録 1章-7〜13節」スティーヴンス栄子オメガバイブルスタディー受講メモ
人を生かすみことばの力1353 新しい契約の仲介者であるイエス・キリスト❣️
人を生かすみことばの力1352『愛か憎しみか』❣️ 11月16日 柿山チャペル礼拝にて
まず、『南海寄帰伝』とは、中国の義浄(635~713)が戒律を求めて自ら趣いたインドや南海諸国で見聞した、現地僧侶の生活法や作法などを集めたものとされ、名称について詳しくは『大唐南海寄帰内法伝』といい、略して『南海寄帰伝』などという。今回からの連載だが、本書の全体で19番目の項目に「受戒軌則」があり、最近の拙ブログの傾向から、この辺は一度学んでみたいと思ったので、記事にしたい。なお、典拠は当方の手元にある江戸時代の版本(皇都書林文昌堂蔵版・永田調兵衛、全4巻・全2冊)を基本に、更に『大正蔵』巻54所収本を参照し、訓読しながら検討してみたい。文章はそれほど長いわけではないが、一々を検討しながらになると、10回程度の連載になる見込みである。十九受戒軌則西国出家の軌儀、咸悉、具に聖制有り、広くは百一羯磨の如し。此には...新連載開始(義浄『南海寄帰伝』巻3「十九受戒軌則」の参究・1)
連載は20回目となる。『養老律令』に収録されている『僧尼令』の本文を見ているが、『僧尼令』は全27条あって、1条ごとに見ていくこととした。まずは、訓読文を挙げて、その後に拙僧なりの解説を付してみたい。なお、『令義解』の江戸期版本(塙保己一校訂本・寛政12年[1800]刊行、全10巻で『僧尼令』は巻2に所収)も合わせて見ていきたい。凡そ僧尼等身死なば、三綱月別に国司に経れよ。年毎に朝集使に附けて、官に申せ。其の京内は、僧綱季別に玄蕃に経れよ。亦た年の終わりに官に申せ。『令義解』12丁表を参照、原漢文これは、各寺院に所属する僧侶が亡くなった場合、どのように国・官に対して報告するかが問われている。それで、この1条は、『令義解』の解説が何も挿入されていないので、『日本思想大系』の補註などを参照しながら、理解してみたい。...第二十条・身死条(『僧尼令』を学ぶ・20)
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載25回目である。25教皇が煉獄に対してもっている権限と同じものを、その司教も、高位の聖職者も、それぞれの司教区、聖堂区に対して個別的にもっている。深井氏下掲同著・20頁ここ数回の記事で見てきたように、教皇は煉獄、或いは煉獄にある魂に対して、それほどの強い権限を持っているわけではないことが確認された。そうなると、ここで敢えて、他の司教、聖職者の権限が論じられているというのは、つまり、権限を持つという点で、教皇の独裁を許容せず、聖職者であれば誰しも同等に持っていて、それを、自らが担当している区域に適用されるということのようである。そう考えると、教皇の特権を相対化するための教示だったということなのだ...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・25
前々回の記事から、「篤胤の天竺論」として論じている。篤胤は、仏教の開祖である釈迦牟尼仏が活動したインド(天竺)のことを明らかにすることで、日本との差異を示し、当然に、仏教について宗教としての日本での有効性の無さを示そうとしていると推定される。よって、篤胤なりのインド分析が語られたのである。又釈迦の生国迦毘羅衛国と云は、印度にある一つの島で、めぐりがやうやう三百六十余里〈御国の六十里なり〉と云事でござる、是をせいらんと云てござる。増釈采覧異言に、此島は去赤道北方四度と有から、別して焼るやうでござる。則釈迦の修行したる霊鷲山といふ山が有て、古跡も存してあるそうでござる。『平田先生講説出定笑語(外三篇)』11頁、漢字を現在通用のものに改めるここは、釈尊の生国について、篤胤が論じた場所なのではあるが、これはどういうこと...篤胤の天竺論(3)(拝啓平田篤胤先生7)
大乗仏教の戒律を学んでいると、何故か以下の一節が目に付いた。いわゆる十善法、五戒、八戒、十戒、六波羅蜜戒なり。『菩薩瓔珞本業経』巻下「釈義品第四」十善法とは、十善戒のことだが、他は在家五戒、八斎戒、十戒は沙弥十戒だろうか?それとも、この『瓔珞経』でも説かれている「十重禁戒」のことだろうか。ただし、問題は「六波羅蜜戒」という表現そのもので、六波羅蜜とは菩薩の修行に相当するため、もしかすると、この部分は明確に「菩薩戒」なのかもしれない。つまり、「十戒」は「沙弥十戒」であり、そこに加えて「菩薩戒」を受けることを指しているのではないか?という仮説である。ただし、難しいのは、『瓔珞経』での「十戒」とは、以下のような文脈で見られることである。・若し十戒を破れば、悔過すべからず。「賢聖名字品第二」・共に無数の天子、十戒を修し...「六波羅蜜戒」って何だ?
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 作仏を(と)図ること莫(なか)れ。 豈に坐臥に拘(かか)はらんや。 という部分を解説していきます。 前回の道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ⑰思いを管理しないことのポイントをここで少しおさらいしておきたいと思います。 前回のポイント 「停める」というのは思いに「ブレーキ」を掛ける事でもなく「ストップ」を掛ける事でもない。「ブレーキ」や「ストップ」をかけることは「思い」を管理しているつまり「思い」をそのままにしておくこと心境と言うのは人間の概念遊び それでは前回のポイントを踏まえたところで本記事
地位や名誉とは縁遠い山奥の地で多くの弟子達と坐禅修行に励み、生涯を「坐禅」に費やされた道元禅師。 愚直なまでに真実を追求し、ただひたすら真実の道の為に。 その「真実の道」を追求するために決して地位や名誉を頼ろうとはしなかった道元禅師。 ただ真実の「坐禅」をただひたすらに打ち込む。 それが何よりも道元禅師が求めていたことで、「真実」の生き方でありました。 今回はそんな道元禅師の求めた真実の道を、位の高い高僧に与えられる「紫の衣」とまじえてご紹介していきます。 この記事を書いているのは こんにちは「harusuke」と申します。大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内でサラリーマンをし
以前から、一部の経典などに見える「三種戒」という表現が気になっていた。そこで、今日はその一部を見てみたいと思う。優波離、復た仏に白して言く、「若しくは白衣、五戒を受けざるに、直に十戒を受く、得戒と為るや不や」。答えて曰く、「一時に二種戒を得、優婆塞戒を得て、沙弥戒を得る。若しくは、五戒、十戒を受けざるに、直に具戒を受くれば、一時に三種戒を得ん」。『大方便仏報恩経』巻6「優波離品第八」この経典の成立については、色々と議論があるようで、専門的な研究も複数存在しているようである。今そこに触れている余裕は無いので、まずは上記の内容を読み解いておきたい。優波離というのは、釈尊の直弟子で、後に十大弟子と呼ばれた方々の間でも、「持律第一」と呼ばれたウパーリ尊者のことである。釈尊入滅後の仏典結集の際には、律蔵の編集を担当したと...「三種戒」について(1)
タイトルの一件について、一度文脈を見ておきたいと思っていたので、この記事で採り上げてみたい。たいがい、「声聞の持戒は……」を検討する場合、該当する文脈しか引かれないが、今回は全体を見直してみたら、ちょっと面白かったので、確認してみたい。なお、【(1)】の続きである。〈以上は前の記事〉是の義を以ての故に、菩薩乗の護戒を尽くさずと説くと為し、声聞乗の護戒を尽くすと説くと為す。諸菩薩の戒の開遮を説くと為し、諸声聞の唯だ遮戒のみを説くと為す。菩薩乗の深心戒を説くと為し、声聞乗の次第戒を説くと為す。云何が、菩薩の持して護戒を尽くさず、声聞乗の持して護戒を尽くすや。菩薩乗の人、浄戒を持つと雖も、諸衆生に於いて応当に随順すべし。声聞乗の人、応に随順すべからず。是の故に菩薩の持して護戒を尽くさず、声聞乗の人持して護戒を尽くす〈...『大宝積経』巻90に見る「大破戒」について(2)
解脱上人とは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて南都の戒律復興運動を展開した解脱房貞慶上人(1155~1213)のことである。そこで、貞慶上人の高弟・戒如上人が記録された『戒律興行願書』が残されているので、数回にわたってその本文を学んでみたい。如来の滅後、戒を以て師と為す。出家・在家、七衆の弟子、誰か仰がざらんや。十誦律に云く、又た諸比丘毘尼を廃学して、便ち修多羅・阿毘曇を読誦するを、世尊種種に呵責す。毘尼有るに由りて、仏法世に住す〈云云〉。此の如きの文、幾許なるかを知らず。然而、時を追うて漸衰するは、必然の理なり。我も暗く、人も暗し。学ばず、持さず。但だ八宗相い分かれての後、三学互いに異なるの中、御寺昔より、二宗を相伝す。東西の堂衆は、則ち其の律家なり。鑑真和尚を以て祖師と為し、曇無徳部を以て本教と為す。『...『解脱上人戒律興行願書』を読んでみる(1)
まずは、以下の一節をご覧いただきたい。太上天皇、先ず大和上を請して、親対して菩薩の浄戒を受くるなり。仍って和上を拝して、釈門大僧正と為す。其れ法進沙門を律師と為すなり。仍って即ち和上の旅疲を済わんと欲して、奈良城右京五条二坊内、新田部親王家四箇町地并びに房舎、及び備前国の水田一百町を以て、以て永く大和上に施与し、用って宿院及び供料と為す。則ち堂舎を餝造して、号して招提と称し、仏像・経教を安置し、無遮の供を設けて、以て十方衆僧を資供し、用って来際の壇場と期するものなり。東大・招提二寺を餝造して、戒を授くること間無し。宝字二年中、更に別勅有りて大和上の号を加え、天下の僧尼に詔して、皆、大和上に帰して、戒法を習学するなり。爾自り以来、僧・二百五十戒、尼・五百戒を以て、此の土の出家の類に授与し、仏法を住持し、国家を鎮護...鑑真和上による戒律伝来の一事について
中国天台宗の授戒による教化を見ておきたい。毎歳仲春、菩薩戒会を建て、其の化を被むる者、常に五千大衆に満つ。『四明尊者教行録』巻7「四明法智尊者実録」こちらは、中国天台宗で14祖に位置付けられる四明知礼尊者(960~1028)の行実について論じられたものだが、このように「菩薩戒会」を実施しておられたという。なお、その時期は毎年の仲春(旧暦2月)であったというが、何だろう?知礼尊者はこの時に授戒会を行う意味を感じていたのだろうか。例えば、釈尊涅槃会などもあるから、それに因むものか?或いは、日本でいうところの彼岸会も、旧暦では2月となるから、その辺の関係もあるのだろうか?良く分からない。なお、知礼尊者の場合、その授戒による教化を被った者は、常に5000人に達していたというので、かなり大がかりな授戒会であったことを想像...「菩薩戒会」について
良く分からない言葉を見出したので、採り上げてみたい。元豊中、衛州の壇山六度寺の済律師、増戒会に曽て濾水せざる。太閑和尚云く、増戒と云うと雖も、却って是れ増罪なり。慈悲の言もて、誰か警悟せざらんや。頌に曰く、記得す壇山の増戒会、済師全く濾蟲の縁を闕く。太閑和尚深く呵責す、聚集の僧徒長く罪愆す。『禅苑清規』巻10「新添濾水法」まず、元豊年間(北宋代、1078~1085年)に衛州の壇山六度寺に於いて戒会を行っていた済律師という人がいたらしい。ただし、この記録については、当方の拙い調査では良く分からなかった。ついでにいうと、この太閑和尚という人についても、良く分からなかった。よって、『禅苑清規』の成立は1103年であるので、その少し前の出来事について、収録したということなのだろうか。さて、更に分からないのが「増戒」とい...「増戒会」について
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 心意識の運転を停(や)め、念想観の測量(しきりょう)を止(や)めて、 という部分を解説していきます。 前回の道元禅師の『普勧坐禅儀』について学ぶ⑯実際の「坐禅」の仕方について初めて触れる部分では、『普勧坐禅儀』において初めて道元禅師が実際の「坐禅」の仕方について説いたその内容についてそれがどういったものかを解説しました。 それでは前回のポイントをおさらいしましょう。 前回のポイント 道元禅師の言う「参禅」とは「坐禅」のことをさす。「坐禅」はしずかな場所で行うこと「坐禅」をする際は「腹六分目」が相
「坐禅」ひたすらに実践し続ける事(只管打坐)をお説きになった道元禅師。 「坐禅」そのものを悟りの目的とし、「坐禅」を行う事は「生命の実践」、「仏行」とも言われております。 今世界中でブームを巻き起こしているこの「禅」。 その禅と同義とされる「坐禅」に関して、目的や継続の意義について疑問に思っている方は多いはずです。 今回はそんな「坐禅」に関して皆さんが抱える疑問を一つずつ丁寧に解説していきたいと思います。 それでは参りましょう。 この記事を書いているのは こんにちは「harusuke」と申します。大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内でサラリーマンをしております。 坐禅に関する悩
とりあえず、以下の一節を見ておきたい。菩薩戒を受くるに五利有り梵網経の偈に云く、明人の忍慧強て能く是の如き法を持する。未だ仏道を成ぜざる間、五種の利を安獲す。一つには十方仏、愍念して常に守護す。二つには命終の時、正見にして心歓喜す。三つには生生の処、諸菩薩の友と為る。四つには功徳聚、戒度悉く成就す。五つには今後世、性戒福慧満つ。『釈氏要覧』巻上、原漢文これは、『梵網経』巻下の巻末部分に見える偈頌である。それを「受菩薩戒有五利」だとしているのである。なお、この「五利」を挙げているのは、本経のみであるようなので、『梵網経』及び同経で説かれる菩薩戒の功徳を広く示すために、収録されたものだと推定できよう。それでは、具体的にはどのような利点を示しているのだろうか。まず、一つには十方に在す仏陀が、菩薩戒を受けた者を常に慈悲...菩薩戒を受ける利点について
・俳句の日(コトバンク)上記の通り、今日8月19日は「俳句の日」である。京都教育大学名誉教授の坪内稔典先生などが提唱され、1991年に制定された「俳句の記念日」となっている。もちろん、今日が揀ばれた理由は、「819(はいく)」の語呂合わせからである。そういうことなので、今日は「仏教と俳句」という観点から記事を書いてみたい。まず、仏教的な俳句を詠まれた俳人は多く、例えばすぐに思い付くのは小林一茶(1763~1828)である。全部で2万首以上の俳句の中で、仏教関係だけでも約1000首以上はあるようだ。とはいえ、一茶は阿弥陀信仰を持っていたようで、詠まれた仏教関係の俳句にもそういう傾向が見られる。何事もなむあみだ仏閑古鳥一茶・・・どういう意味なのだろう?全く分からない。とりあえず、俳句を鑑賞するための能力が備わってい...8月19日俳句の日
これは、中国で成立した菩薩戒思想の経典『梵網経』の一節である。訓読すれば、「我れ今、盧舎那、方に蓮華台に坐す」となる。ところで、この一節の意義について、以下のような註釈が存在している。我今盧舎那、方坐蓮華台上の句は、舎那の本身を明し、下の句は舎那の本土を明す。此れ即ち依正両報なり。仏身四種、一つには法身と謂い、二つには真応と謂い、三つには法報応と謂う。毘盧遍耀は、正法を身と為し、舎那の行満は、報果を身と為し、釈迦の迹して、赴感を身と為すなり。〈中略〉我今とは、八自在の我なり。舎那とは無明の塵垢、永く尽きて、智慧の功徳円備すること、浄満月の如し。名を以て徳を表すなり。方坐蓮華という下の句は、依報を明かす。方とは正なり、正法に安住するが故に、坐というなり。何故ぞ、蓮華台に坐する世界の形相、蓮華に似たり。故に蓮華蔵と...「我今盧舎那、方坐蓮華台」について
タイトルの一件について、一度文脈を見ておきたいと思っていたので、この記事で採り上げてみたい。たいがい、「声聞の持戒は、菩薩の破戒」を検討する場合、該当する文脈しか引かれないが、今回は全体を見直してみたら、ちょっと面白かったので、確認してみたい。爾の時、世尊、優波離に告ぐ、「汝、今、当に知るべし。声聞・菩薩、清浄戒を学ぶも、発心する所、修行する所、異なれり。優波離よ、声聞乗有りて清浄戒を持す、菩薩乗に於いて大破戒と名づく。菩薩乗有りて清浄戒を持す、声聞乗に於いて大破戒と名づく。云何が、声聞乗の人、浄戒を持すると雖も、菩薩乗に於いて大破戒と名づくと為すと名づくや。優波離よ、声聞乗の人、乃至、応に一念に於いて更に後身を受くることを起こさず、是れを声聞の清浄戒を持つと名づく、然るに菩薩に於いては大破戒と名づく。云何が、...『大宝積経』巻90に見る「大破戒」について(1)
盂蘭盆会というと、食事の供養を行うイメージが強いと思うが、それは『盂蘭盆経』の所説に従って自恣を行った僧侶を供養することを意味している。ところが、日本の盂蘭盆会の場合、特に禅宗などでは施食供養をもって、盂蘭盆会に充てる場合がある。そこで、各宗派では、もちろん独自に儀礼作法が展開しているが、施食作法の場合、元になったのは密教系の経典・儀礼となる。以前から、この施食供養の中で、授戒が行われていることに関心を持っていた。以下の一節を見ておきたい。次に、汝等に帰命三宝を与う。帰依仏両足尊・帰依法離欲尊・帰依僧衆中尊〈三説す〉。汝等、仏子、帰依仏竟・帰依法竟・帰依僧竟〈三説す〉。汝、三宝に依るが故に、法の堅く護持するが如し。次に、汝等の為に発菩提心す。汝等、諦聴せよ、金剛掌を作して、忍願は蓮葉の如し。印心上を以て、真言に...施食会儀軌における授戒について
今日8月13日からお盆である。盂蘭盆会の行事を行うご家庭では、盆棚(精霊棚)を設置し、特に食べ物を中心にお供え物を準備されていると思う。そこで、このお供え物について、ごく簡単な記事を書いておきたい。盂蘭盆会の思想・行法的な根拠となるのが『盂蘭盆経』なのだが、それを見ると、「具飯百味五果」とあるのが分かる。だが、これだけしかないので、具体的な意味が分からない。「百味」というのは様々な味を持つ食べ物という意味であろうし、「五果」とは、5つの果実(種類はともかくとして)のことであろう。例えば、以下のような指摘がある。具飯・百味とは、總標なり。人の饌を盤に盛りて、筵の賓客に邀命して、唯だ喫飯のみと云うが如し。故に飯を、百味の総統と為す。百とは大数なり、一百に定めるに非ず。五果とは、一つには核果、棗杏桃李等の如し。二つに...お盆のお供えについて
『黄檗清規』とは、江戸時代に入り隠元隆琦禅師とその門派によって伝えられた黄檗宗(当時は、臨済正宗や黄檗派と名乗ったか?)の中でも、主として黄檗山万福寺で用いられた軌範である。その中で、「節序章第七」という一章があるのだが、内容はいわゆる「年中行事」である。そこで、7月を見てみると、以下の一節を見出すことができる。七月十五日解夏上堂盂蘭盆報本大会を啓建す、〈中略〉自恣の日に至て、当午に和羅飯を設く〈華に自恣食と言ふ、五果を以て香飯を煮る、是れなり〉、鉢盂を以て之を盛り、仏前に安ず。大衆上供、跪いて盂蘭盆経を誦す、住持拈香、夜は瑜伽法食を放す〈或いは小庵院に住して会を建ること能ざれば、唯誦経の一日も可なり〉、『黄檗清規』版本・33丁裏~34丁裏、おおむね原典に従って訓読まず、七月十五日は解夏であり、自恣である。その...『黄檗清規』に見る盂蘭盆会
道元禅師がおすすめになる「坐禅」。 「坐禅」の実践こそが修行そのものであるとし、過去に多くの祖師方がこの「坐禅」を実践されてきました。 近年でも「禅ブーム」が流行し、生活の一部にこの「坐禅」を取り入れる方も多くなってきております。 「生命そのものの実践」、「仏行」とも言われるこの「坐禅」。 今回その「坐禅」を自宅でも正しく実践できるように、細かいポイントや坐禅における心構え、そして実際の実践方法について分かりやすく紹介したいと思います。 尚、本記事は 「別冊太陽 道元」監修角田泰隆 平凡社を参考に執筆しています。 この記事を読んで頂ければすぐにでも「自宅」で道元禅師がおすすめになる正しい「坐禅
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲飡(おんさん)[飲食(おんじき)]節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪(ぜんなく)を思はず、是非を管すること莫(なか)れ。 という部分を解説していきます。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑮「禅」の至極、「恁麼」とは?と、前々回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑭人が安心できる本当の「場所」とは?はこの『普勧坐禅儀』において非常に重要な部分となります。 なので今一度ご一読いただくとこれからますます難儀となる『普勧坐禅儀』も読みやすくなるの
まぁ、語呂合わせである。今日は8月10日なので、「法堂の日」と題して、学んでみたい。まず、禅宗が「法堂」を重視するのは、以下の一節から知られる。仏殿を立てず、唯だ法堂を搆うるのみなるは、仏祖の親受を表して、当代の尊と為すなり。入門して仏殿無し、陞座する虚堂有り。即ち此れ心印を伝う、当に知るべし是れ法王なり。『禅苑清規』巻10「百丈規縄頌」これは、『百丈清規』の理念を表現したとされる『禅門規式』と、禅宗の修行理念に対して、頌を付した『百丈規縄頌』である。その中に、法堂の意義について以上のように表現している。意味としては、百丈懐海禅師が目指した禅宗叢林は、仏殿を立てずに、ただ法堂のみを建てたという。それは、禅宗叢林の住持とは、大法を親受した仏祖であり、まさしく仏陀と同じくらいにある当代の尊師であるという。つまり、仏...8月10日法堂の日?
長崎、9日原爆の日76回目、「核禁止条約へ参加を」(時事通信)長崎県長崎市では、8月9日に76回目の原爆の日を迎えます。長崎市松山町の平和公園では、午前10時45分から市主催の「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」(平和祈念式典)が開かれ、原爆投下時刻の午前11時2分に黙祷を捧げます。なお、今年は台風9号の影響もあるようですが、式典そのものは被爆者や遺族、菅義偉首相ら約500人が参列する予定とのことです。そして、7月末までの1年間に死亡が確認された3202人の名前を記した原爆死没者名簿3冊を奉安し、死没者数は18万9163人となります。しかし、このような死没者の数を表記してしまうと、ただの数になってしまいますが、実際のお1人お1人にはそれぞれの人生があり、尊厳があるわけですが、その全てが原子爆弾によって踏みにじられ...8月9日長崎原爆の日に思う「不殺生」
今日、8月8日は様々な記念日がある。その中で、個人的に思い入れがあるのは、「そろばんの日」である。当方も小学校の時には習っていたためである。なお、由来はそろばんの珠を弾く音が「パチパチ」していることから、今日がそろばんの日になったという。・8月8日はそろばんの日(公益社団法人全国珠算教育連盟沖縄県支部)さて、例年、この日に因んで仏典・祖録に出るそろばん(算盤)などを紹介しているのだが、今日も以下の一節を見ておきたい。二五、原来是れ一十なり。算盤珠を打破すれば、珠珠一一に帰す。澄懐居士「唱覚歌」、『御選語録』巻19所収出典の『御選語録』とは、中国の清代に雍正帝(1678~1735)が勅によって、古今の禅録を集録させたもので、雍正11年(1733)に成立したという。そして、今回採り上げた澄懐居士とは清代の政治家・官...8月8日そろばんの日(令和3年度版)
8月盆が本格化しているかと思う。ただし、今年は東京五輪が盛り上がる一方で、首都圏を中心に新型コロナ禍がまん延しており、寺院の行事もかなり厳しい印象である。そうなると、影響を受けざるを得ないのが「棚経」であろう。棚経については、【棚経―つらつら日暮らしWiki】の通り、現在の日本で、7月または8月の13日~15日(この期間は、各地域・各寺院で違いがある)までの盂蘭盆や、他の定められた時期に、祖先の霊を祀る精霊棚や仏壇を、僧侶が訪問して読経供養することを指す。特に供物を献じて僧侶を招き読経供養することは古来から行われてきたが、盂蘭盆会では精霊棚(盆棚)を各ご家庭で設けて、寺檀関係の中で各家々を僧侶が回るようになったのは、江戸時代のキリシタンの取り締まりから始まるともされるが、どうだろうか。そこで、新型コロナの影響か...新型コロナ禍の「棚経」考
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼の事(じ)を務(つと)めよ。 という部分を解説していきます。 前回記事 道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑭人が安心できる本当の「場所」とは? では、 身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目(めんもく)現前(げんぜん)せん。 という部分を解説しました。 ここで前回のポイントを簡単におさらいしておきましょう。 前回のポイント 無我でなければ「仏法」ではない他人の評価で成り立つ「相対的な世界」ほど曖昧で不安定なものない「思う」という事は
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目(めんもく)現前(げんぜん)せん。 という部分を解説していきます。 前回記事 道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑬真の「安心」、「回向返照」とは? では、 所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。 という部分を解説しました。 ここで前回のポイントを簡単におさらいしましょう。 前回のポイント 「言葉」や「概念」は人間観のコミュニケーションツールであり
6日に広島原爆の日核禁止条約支持求め宣言(共同通信)8月6日、広島県広島市では、被爆から76年となる「原爆の日」を迎えます。広島市中区の平和記念公園では午前8時から「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、原爆が投下された8時15分に合わせて黙祷が捧げられます。今年も、新型コロナウィルス感染症の関係から、規模を大幅に縮小し、一般席は設けられず、例年の10分の1以下となる、最大880人が参列されるそうです。なお、全国の被爆者はおよそ12万8000人となり、平均年齢は84歳近くに達しているため、近年語られていることですが、被爆の体験、戦争の悲惨さを、如何にして後世に伝えるかが問題となっています。また、今日の式典では、この1年で死亡を確認した4800人の名簿が原爆慰霊碑に奉納される予定で、死没者はおよ...8月6日広島原爆の日に思う不殺生
こんな一節があった。予はかつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学問に心かけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此の願を立つ。其の所願に子細あり。今くはしくのせがたし。其の後、先づ浄土宗・禅宗をきく。其の後、叡山・薗城・高野・京中・田舎等処処に修行して自他宗の法門をならひしかども、我が身の不審はれがたき上、本よりの願に、諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからず。いづれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ふべし。論師・訳者・人師等にはよるべからず。専ら経文を詮とせん。日蓮聖人『破良観等御書』建治2年(1276)これによれば、日蓮聖人は出家してからというもの、始めに浄土宗・禅宗を聞き、その後は南都・北嶺の諸寺にて参学された様子が示されている。ということは、禅宗の教えを聞い...日蓮聖人は禅宗も習ったのか?!
菩薩戒については、「一得永不失」などとも喧伝されて、(特に戒体は)一度受ければ二度と失わない、という風にもいわれているのだが、一転して失われると主張する文献も存在しているので、紹介しておきたい。略ぼ菩薩戒を失うに二事有り。一つには菩提の願を捨つ、二つには悪心を増上す。是の二事を除けば、若し此の身を捨てても戒、終に失わず。是れ従り以後、生生の処に常に此の戒有り。若し憶念せずとも、更に善友に遇うて而も更に受くる者、新得と名づけず。『優婆塞五戒威儀経』、訓読は拙僧確かに、この2つは問題だ。菩薩戒どころか、そもそも菩薩として生きること自体が不可能となる事態であろう。要するに、菩薩の誓願を捨てたり、悪心を増長させたりすれば、菩薩戒を失うとしているのである。転じて、この2つのこと以外であれば、喩えこの人生で死して、この身を...菩薩戒を失う条件とは?
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。二戒毘尼母に云く、戒に二種有り。一つには出世間戒、二つには世間戒なり。此の世間戒、能く出世戒の為に因と作るが故に、最勝と云う。又た云わく、一つには依身口戒なり。二つには依心戒なり。依身口戒に因りて、依心戒を得るが故に。『釈氏要覧』、訓読は拙僧ここでいう「二戒」というのは、ただの「二つの戒」の意味である。それで、典拠は『毘尼母経』であることを示しているが、具体的には巻3であり、以下の一節となっている。云何が波羅提木叉と名づくるや。波羅提木叉とは、最勝義と名づく。何の義を以ての故に、名づけて最勝と為すや。諸善の本、戒を以て根と為す。衆善して生を得る、故に勝義と言う。復た次に戒に二種有り。一つには出世、二つには世間なり。此の世間とは、能く出世の与に因と作る、故に最勝と言う。復...「二戒」について
或る大乗経典を読んでいたら、「第一義僧」に関する話を見出したので、採り上げてみたい。復た次に、族姓子よ、四種の僧有り。何等をか四と為すや。第一義僧、浄僧、唖羊僧、無慚愧僧なり。云何をか第一義僧と名づくや。諸仏世尊、大菩薩摩訶薩、辟支仏、一切法に於いて悉く自在を得ん。阿羅漢、阿那含、斯陀含、須陀洹、是の七種の人、名づけて第一義僧と為す。諸もろの、在家に有りて法服無き者は、波羅提木叉戒を具受すること能わず。布薩・自恣、而して聖果を得るに入らず。聖果を得已りて亦た第一義僧と名づく。『大方広十輪経』巻5「衆善相品第七」、拙僧ヘタレ訓読拙僧自身、こういう概念があること自体、これまで知らなかったのだが、これを読んでみると、僧侶の大きな区分けとして、四種類に分けており、その第一を「第一義僧」としている。ただ、順番というよりも...「第一義僧」のお話し
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