戒律を学ぶこととは「法体行相」を知ること?
とりあえず、以下の一節を見ていただきたい。中に就いて戒の要綱といふのは、所謂戒律の全部を包括して、之を組成する要領を法体行相の四とするといふことである。更に委しく言へば、戒法、戒体、戒行、戒相の四が完備しなければ、之を戒律といふことが出来ない、また此の四つで戒律の全部は尽されて居るといふのである。国民文庫刊行会『国訳大蔵経(附録戒律研究上)』昭和3年・国民文庫刊行会、49頁以前、明治時代初期に書かれた別の文章でも、戒律については「法体行相」を知らなくてはならないのに、最近はけしからん、的な文章を見たことがあったのだが、どうも、これは戒律研究上、必須とされた考え方だったようである。しかし、どうも、個人的に読んでいる文献には、中々このことを指摘する場合がないようだし、どうなっているのだろうか?と思い、今回その疑問点...戒律を学ぶこととは「法体行相」を知ること?