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前回の記事は、「悉多太子の修学伝承への批判」と題して、いわゆる釈尊がまだ太子だった頃の修学について、篤胤の見解を探ってみたのだが、今回は「悉多太子の妻の数」と題して、釈尊がまだ在家の太子だった頃の婚姻関係について考えてみたい。ところで、篤胤自身が、仏典をどう評していたのか、その簡単なところを見ておきたい(なお、後に詳細な批判が見えるので、それはまた後日の記事で採り上げたい)。すべて経文どもは此次の会に委くいひませうが、尽く釈迦が死で、はるか後の世に、うそはつき次第と記したるもの故、実の事はないが、其中に実に有たること実がまゝ交りある。それはよく前後の考へわたして味はへると動かぬものでござる。其動かぬ実事を撰び取て、それを規矩として、よくさぐり考へると、彼偽どもがよくしれるでござる。すべて仏経を読む法は一つ二つ、...悉多太子の妻子の数(拝啓平田篤胤先生12)
6回目となる連載記事だが、義浄(635~713)による『南海寄帰伝』19番目の項目に「受戒軌則」があり、最近の拙ブログの傾向から、この辺は一度学んでみたいと思っていた。なお、典拠は当方の手元にある江戸時代の版本(皇都書林文昌堂蔵版・永田調兵衛、全4巻・全2冊)を基本に、更に『大正蔵』巻54所収本を参照し、訓読しながら検討してみたい。前回は、出家時に於ける持鉢の問題を採り上げたが、今回は、出家受戒が成立した日時の確定に関する決まりである。然して後に法に依て受の為に、其の羯磨師、文を執て読み、或る時は暗誦す、倶に是れ聖教なり。既に受戒し已るを、鄔波三鉢那〈鄔波は是れ近、三鉢那は是れ円、謂く涅槃なり。今、大戒を受は、即れ是ち涅槃に親近す。旧に云く具足とは、其の汎意を言ふなり〉と名づく。然も羯磨亦た竟らば、急に須く影を...出家した日時の確定(義浄『南海寄帰伝』巻3「十九受戒軌則」の参究・6)
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載30回目である。5〔30〕自分の痛悔は確かに真実だと言う人は誰もいない。自分が十分な赦しを得ているかどうかは、それ以上の確かなことではない。深井氏下掲同著・21頁分からないのは、「痛悔」という表現である。色々と辞書を調べてみたが、まず酷く後悔することという意味はすぐに分かるのだが、もう一つ、カトリック教会に於ける懺悔の儀式で、「告白の前に心から罪を悔い改めた心情を表示する」ことを指すという。ただし、上記一節の内容としては、おそらくは前者の意味である。つまり、自分では真心から懺悔をしているつもりでも、それが真実かどうか、要するに、神に赦されているかどうかは分からないことを指している。そのため、自...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・30
漢訳仏典に於ける「三輪」という言葉は多様な意味があるので、中々難しいのだが、とりあえず幾つかの仏典に「三輪浄戒」という表現が見えたので、確認しておきたい。菩薩摩訶薩正法中に出家し、三輪浄戒を持し、善く法相を知る。『勝天王般若波羅蜜経』「念処品第四」このように、「三輪浄戒」とは出ているのだが、前後の文脈からすれば、「三輪に浄戒を持し」の意味であると思われる。何故ならば、多くの場合は、そのように書かれているためである。彼れ三輪に著いて戒を受持す、一には自想、二には他想、三には戒想なり。著するに由りて此の三輪、戒を受持するが故に世間、浄戒波羅蜜多と名づく。『大般若経』巻75なお、上記の場合の「三輪」は、「自想・他想・戒想」を指している。つまり、自他平等に物事を捉え、また、戒について思うべきだという。云何が是れ三輪清浄...「三輪浄戒」について
菩薩戒の条数を見るために、何となく「四百戒」という語句で検索したら、以下の一節が引っかかったので、検討してみたい。惟るに当に一心に仏法僧に帰し禁戒を受持すべし。若しくは五戒・十戒・菩薩四百戒・苾芻二百五十戒・苾芻尼五百戒なり。於所受くる所の中に於いて、或いは毀犯有れば悪趣へ堕することを怖れる。若しくは能く専念して彼の仏の名号を恭やしく供養する者は、必定して三悪趣の生を受けず。『薬師琉璃光如来本願功徳経』それで、この内容としては、破戒をしてしまい、罪を得て、更には悪趣への転生が予想されるところ、薬師如来の名号を唱えるなどすれば、それらの結果を得ないという話になっている。気になるのは、この時に用いられた各戒律の条数である。五戒:在家五戒十戒:沙弥十戒苾芻二百五十戒:比丘二百五十戒苾芻尼五百戒:比丘尼五百戒以上の点に...「菩薩四百戒」について
とりあえず、以下の一節を見ておきたい。復た次に、仏の在世時、三蔵の名、有ること無し、但だ持修多羅比丘・持毘尼比丘・持摩多羅迦比丘のみ有り。修多羅とは、是れ四阿含中経の名、摩訶衍中経の名なり。修多羅、二分有り。一には、四阿含中の修多羅、二には、摩訶衍経を名づけて大と為す。修多羅、二分に入れ、亦は大乗、亦は小乗なり。二百五十戒、是の如き等を、名づけて修多羅と為す。毘尼、比丘作罪と名づけ、仏、戒を結ぶ。応に是を行ずべし、応に是を行ずべからず。是の事を作せば、是の罪を得る。龍樹尊者造・鳩摩羅什三蔵訳『大智度論』巻100以上である。ちょっと分からない箇所もあるのだが、一応、訓読すると以上のような感じかと思われる。それで、意味しているのは、釈尊の在世時には、三蔵という名称が無かったということである。これは、要するに釈尊入滅...「三蔵」概念の成立について
連載記事というほどでも無いのだが、とりあえず出家者が髪を剃る理由について検討する記事を複数書いてしまっているので、もう少し書いてみたい。そういえば、釈尊は螺髮であり、結果として剃らなくても良いという話になっていたともされるが、そもそも、釈尊が螺髮だというのは、どの辺から始まったことなのだろうか?本縁部の経典なども見ていくと、以下のようにある。三十二相有るを見る、躯体金色、頂に肉髻有り、其の髪紺青なり……〈以下略〉『太子瑞応本起経』巻上・・・「螺髮」になってないな。あくまでも、髪の色が紺青色だったというだけで、巻いてない。『普曜経』も同じ見解である。しかし、もう少し別の文献を見てみると、以下のような話が出てくる。仙言く、「三十二相とは、一つには頂に肉髻有り。二つには螺髪右旋し其の色青紺なり……〈以下略〉」。『方広...何故、出家者は髪を剃らねばならないのか?(3・螺髮編)
御袈裟について、仏教の出家者の標幟であるというのは、その通りなのだが、よくよく考えてみれば、釈尊はその修行時に御袈裟を着けていたのだろうか?すると、そういう問いをした事例があったらしい。問うて曰く、「仏、初めて得道する時、袈裟を著くるや不や」。答えて曰く、「白衣にして仏を得る者、有ること無し。要らず三十二相有りて、出家、法衣を著け、威儀具足して煩悩を捨離す。而も復た一切の種智、其の身の内に入るは、王女の喩の如きなる。若しくは凡夫、若しくは声聞、若しくは縁覚ならば、一切の種智、終に其の身に入らざるなり。仏、苦行すること三阿僧祇劫、縁覚は百劫、声聞は二三身して、亦た得るべきなり」。『薩婆多毘尼毘婆沙』巻8以上である。質問は、仏陀が得道した時、袈裟を着けていたのだろうか?と尋ねている。そこで、答えとしては、あくまでも...仏陀は成道したときに御袈裟を着けていたのか?
まぁ、別に現代特有の病気というわけではないわけだから、昔の人も「冷え性」にはなったわけである。現代であれば、最先端の医学にお世話になることはもちろんのこと、「養命酒」や様々な食事療法なども用いられるのだろうが、古来はどうやっていたのか?ちょっと、気になった記述があったので見ていきたい。或る時、上人が永く冷病(=冷え性か?)に侵されて食事も出来なかった頃、医博士だった和気の何某が尋ねてきて申すには、「このお疲れは、冷えのためですね。山中で霧深く、寒気が激しい間は、美酒を毎朝温めて、少しずつ服用されればよろしいでしょう」といわれた。上人が仰るには「法師(にとっての身体)は、自分の身体ではなく、一切衆生(を導くため)のための器である。仏が、特に難しい(悟りの世界という)ところに入られて、誡めておられるのも、このためで...冷え性になった和尚
中国で編まれた仏典の中に、面白い対比を見出したので、採り上げておきたい。仮三宝:形像の仏、是れ仏宝なり。一切の経論・教法、是れ法宝なり。剃髪し袈裟を被りて二百五十戒を受く、是れ僧宝なり〈若しくは心を識らず見性せざれば総て宝たる無し〉。真三宝:見性の人、三宝具足す。『諸経要抄』これは、とても面白いと思う。しかし、問題は三宝に「仮と真」という区分が当てはまるかどうかだが、類似した議論は、中国以東でも一定量存在するようだ。それにしても、まず「仮」の方は何を言っているかというと、まずは仏像のことを、仏宝だとしている。そして、仏陀が遺された一切の経論や教えなどが、法宝だとしている。更に、剃髪して袈裟を着け、二百五十戒を受けた比丘のことを、僧宝だとしている。これらは、極めて形式的であり、それこそ「像法的」である。つまりは、...仮三宝と真三宝
犠牲者悼み、明かりともす阪神大震災、17日で27年(時事通信)6434人追悼、祈り阪神大震災27年、継承課題(共同通信)1995年1月17日5時46分に発生した阪神・淡路大震災から、今日で27年となりました。この震災では6434人が犠牲となり、まさに90年代中盤、いわゆる「世紀末」が近付いていた状況、色々と不安を覚えたことを思い出します。当方も、改めて哀悼の意を表します。ところで、報道の一部には、新型コロナウィルス感染症の影響で、昨年・今年と追悼行事の一部は中止や縮小を余儀なくされ、更に、発生から四半世紀以上がたち、震災を経験していない世代も増加しているため、今後こういった行事などをどう継承するかが問われているようです。個人的には、追悼としての祈りは遺族や関係者が行うべきものであり、社会としてはこの震災があった...1月17日阪神・淡路大震災から27年
『解深密経』とは、玄奘三蔵が訳出した法相唯識系の大乗経典であるが、そうなると当然に瑜伽戒系の詩僧が裏打ちされているはずで、三聚浄戒についての教えが見られることは既に見たことがあるのだが、今回は別の箇所として、「七種戒清浄相」を見ておきたい。なお、今回は円測による『解深密経疏』を重ねつつ見ていきたい。又、諸もろの菩薩、能く善く律儀一切の学処の制立を了知す。能く善く出離・所犯を了知す。釈して曰く、自下の第二、戒の七相を弁ず。先に釈し、後に結す。七相を釈するに即ち分かちて二と為す。初め二相の能善了知を明かし、後に五相の正顕受持有り。此れ即ち初なり。一には能善了知律儀戒中一切学処なり。故に相続経に云く、善く一切の律儀戒を制す。二には能善了知出離所犯なり。即ち是れ出罪懺悔の法なり。故に相続経に云く、善く出過す。深密経に云...『解深密経』に見る「七種戒清浄相」について
もう一ヶ月も経つと、いわゆる釈尊涅槃会(2月15日)となるが、それを迎える前に、仏陀が入般涅槃された後、遺されたものを考えてみたい。仏、天下に教えを授けて人民を度脱す。因みに二月十五日を以て、泥洹し、去る。其の経・戒、続存す。履んで能く之を行じて、亦た無為を得る。福は後世に流れ、五戒を持する者、一月に六斎す。斎の日、一意に専心して、悔過して自から新たなり。沙門、二百五十戒を持し、日日に斎す。其の戒、優婆塞の得聞する所に非ず。威儀・進止、古の典礼と異なること無く、終日竟夜に道を講じ経を誦し、世事に預からず。僧祐『弘明集』巻1簡単に訳してみよう。仏が天下(地上のこと)の衆生に教えを授け、苦悩から度脱させた。しかし、二月十五日に涅槃に入り、この世から去ってしまった。ただし、その経(教え)と戒(律)が遺された。よって、...仏陀は死して何を遺したか?
戒定慧について、その一等などを示すことは禅門に限らず見られる教えのようだが、改めてこの三学の関係性を学んでおきたい。以下の一節などはどうだろうか?戒定慧戒定慧の三学とは、衆生の自性、本有の物なり。修証に因らずして、而も得たり。唯だ諸仏・菩薩の具足のみに非ず、一切の凡夫、悉く皆な具足す。自性に善悪無く、持も無く亦た犯も無し。是れ自性戒なり。自性に諍乱無く、取も無く亦た捨も無し。是れ自性定なり。自性本より知らず、知らざる所も無し。是れ自性慧なり。諸仏・菩薩、有を知るが故に受用を得る。一切の凡夫、有を知らざるが故に、受用することを得ず。有を知り有を知らず、似て少かに異れり。而も戒定慧、未だ嘗て少かにも異ならざるなり。『緇門警訓』巻4さて、ここで採り上げているのは、「自性」としての「戒定慧」である。分かっているような、...自性としての「戒定慧の三学」とは?
『大般涅槃経』の註釈書を見ていたら、少し気になる一節があったので、見ておきたい。菩薩、若し能く是の如く堅持すれば、阿耨多羅三藐三菩提戒に至る。案ずるに、僧亮曰く、戒に五分の身業口業有り。五戒・十戒・二百五十戒、是れ根本の三乗通行するなり。余の四は、是れ菩薩戒なり。覚とは、三善を覚するなり。念とは、無相念を念ずるなり。正法戒とは、無漏、其の内解に由りて、師授すべからざるなり。僧宗曰く、第二科なり。宝亮曰く、五枝戒とは、戒体なり。根本業戒とは、小乗の四重戒なり。菩薩、心を先と為すと雖も、亦た身口を遺さざるなり。前後の眷属とは、第二篇以下に従うなり。是れ四重の余なり。覚清浄とは、三毒等、悉く菩薩戒を犯す。此れ明、起たざるなり。正念とは、謂く四十軽戒を亦た犯さざるなり。回向とは、即ち上の四戒なり。『大般涅槃経集解』巻2...「戒に五分の身業口業有り」という話
以前、【「一人布薩」の問題について】という記事をアップした際に、「持律六徳」について書かれた文献を見た。今日は、その内容を精査してみようという話である。云何が持律六徳なるや。一つには波羅提木叉を守領し、二つには布薩を知り、三つには自恣を知り、四つには人に具足戒法を授けることを知り、五つには人の依止を受け、六つには沙弥を畜うることを得る。是れを六徳と名づく。『善見律毘婆沙』巻16まず、この六種類を総じて見てみると、自分自身の修行や持律についてよく知っているという分があって、後は、後進の者に教えるという側面の分とがある。ところで、これは「持律」と呼ばれるための「6つの特性」を意味すると思うのだが、まず、自分自身で波羅提木叉(戒)を守るのはその通りである。ここが無くては話にならない。『四分律』であれば二五〇戒とはいう...「持律六徳」について
今日1月11日は、鏡開きである。正月に歳神や仏に供えた鏡餅を下げて食べるという。意義としては、仏神に感謝し、また供えられた餅を食べることで、無病息災などを祈るものである。何故、「鏡餅」というかといえば、鏡台に餅を供えたかららしい。そのようなことを述べつつ、後は、個人的に考えていることを述べたい。やはり、「鏡開き」とは、どんな鏡を開くのか?を問いたくなってくる。そうなると、当方として開くのは、「宝鏡三昧」でありたいと思う。書名としての『宝鏡三昧』は、『宝鏡三昧歌』とも呼ばれ、中国唐代の禅僧・洞山良价禅師(807~869)の撰述(異説も多くある)とされる。では、この「宝鏡三昧」とは、どういう意味であるのか。今、此の相を論ず。我が法中に入りて種種の名有り。華厳、此を名づけて一真法界と為す。法華、此を名づけて一実相と為...1月11日今日はどんな鏡を開くのか?
今日は成人の日である。基本としては、平成14年度生まれの人が該当する。ところで、気を付けたいのは、今年4月1日から、成人が18歳に引き下げられるので、来年は一気に該当者が変わるので、各自治体などからの案内に注意されると良いと思う。個人的には、今年18歳・19歳の人はどうするのかな?とか思うが、それはそれで巧く対応するのだろう。さて、成人式に該当する儀礼について、古来は元服だったのだろうが、その元服と今の成人式の間には、かなりの隔絶があるように感じている。そもそも元服は江戸時代、武家の儀式だったのだろうし、そうなると男子の儀式だったのだろう。それに、年齢だって、もう少し下の13~15歳くらいだったはずだ。そうなると、やはり今の成人式との違いが大きいわけで、その辺を疑問に思っていたわけである。ということで、元服の儀...成人式の起源に関する雑考(成人の日・令和4年版)
今日は1月9日、語呂合わせで「いっきゅう⇒一休⇒とんち」ということで、「とんちの日」となっている。例年、この日には臨済宗大徳寺派の一休宗純禅師に因んだ禅問答を採り上げ、そのとんち(頓知=当意即妙なる答えを発する知のこと)を味わってみようというところである。そういえば、一休禅師に関するとんちだが、ほとんどは後代に作られたものである。特に、『一休噺』などと呼ばれる文献が室町時代後期から作られ、江戸時代に入り何度も刊行されると、『一休噺』がさも実像であるかのようにも捉えられ、昭和期にはアニメ『一休さん』も放映されるなどし、その評価が固まってしまった感がある。もちろん、史実の一休禅師がかなりかっ飛んだ人物であったことは疑いないが、流石に説話のような人物像を実際と捉えることも出来ない。そんなことをいいつつ、今日は説話の中...今日はとんちの日(令和4年版)
少し気になる一節が見られたので、検討しておきたい。若し比丘有りて、能く是の如き師子吼を作す時、破戒の者有りて、是の語を聞き已りて、咸く共に瞋恚し、是の法師を害す。是の説法者、設い復た命終するとも、故に持戒し、自利利他すると名づく。是の説を以ての故に、我れ国王、群臣、宰相、諸もろの優婆塞、説法人を護ることを聴す。若し、正法を護ることを得んと欲する者有れば、当に是の如く学すべし。迦葉、是の如く破戒し護法せざる者は、禿居士と名づく。持戒に非ざる者、是の如くの名を得ん。『大般涅槃経』巻3「金剛身品第二」まず、訳しながら内容を把握していきたいのだが、比丘がいて、素晴らしい説法をした時に、その言葉に対して怒りを覚え、その法師が殺されてしまったという。だが、世尊は、この説法者は命を終えても、持戒しており、自利利他すると名付け...持戒の比丘は横死しても名を残す
今日1月7日は「人日の節句」である。これを知るために、まず「五節句」から確認していこう。古来、日本には、中国から取り入れて定着した「五節句」があった。日付名称関連草花①一月七日人日の節句・七草②三月三日上巳の節句・桃③五月五日端午の節句・菖蒲④七月七日七夕の節句・笹⑤九月九日重陽の節句・菊現在の我々は、場合によっては桃の節句と呼び、端午の節句と呼んだりと、正式なる名称と、関連する草花の名称とを混同して用いるが、実際には上記のように全てに正式な名称がある。なお、江戸時代までは現代的な意味での祝日ような扱いだった五節句だったが、明治時代に入ると新暦が採用された関係で、各植物の季節が合わなくなった。それから、明治政府は天皇中心の祝日に改めるつもりだったらしく、結果として五節句は廃止された。今では、暦を知る一つの手段と...今日は人日の節句(令和4年版)
理由の詳細は書かないが、今日は個人的に「八大人覚」を学んでみる日としている。それで、「八大人覚」について、一部宗派などでは、『仏垂般涅槃略説教誡経』中の説示を理由に、釈尊の遺誡のように捉えている場合もあるが、実際には他の場面でも用いられているので、今日はその例を見ておきたい。云何が八生法なるや。謂わく八大人覚なり。道、当に少欲なるべし、多欲は道に非ず。道、当に知足なるべし、厭うこと無きは道に非ず。道、当に閑静なるべし、衆を楽うは道に非ず。道、当に自守すべし、戯笑するは道に非ず。道、当に精進すべし、懈怠するは道に非ず。道、当に専念すべし、多忘するは道に非ず。道、当に定意すべし、乱意は道に非ず。道、当に智慧あるべし、愚痴は道に非ず。『長阿含経』巻9まずは、上記の教えを見ておきたい。気になるのは、「八生法」という表現...今日は「八大人覚」を学んでみる
とりあえず、阿含部の経典を読んでいたら、気になる一節が合った。当に戒経を奉持して、当に缺犯せざるべし。五戒を持つ者は、還りて世間に生じて人と作る。十善を持つ者は、天に生ずることを得る。二百五十戒を持つ者は、現世に阿羅漢・辟支仏・菩薩・仏の泥洹大道を得べし。『仏説恒水経』ここで出ている五戒・十善戒・二百五十戒は、それぞれ役割や機能が違っている。具体的には、五戒とは在家者にとっての戒律であるけれども、それを守った功徳としては、また人間界にて生まれ変わることになるとしている。一方で、十善戒というのは、出家・在家に関わらず守るものともされ、いわゆる身口意の三業についての持戒だが、これを守る場合には天の世界に生ずるとしている。いわゆる神の仲間入りということだが、別の教えでは転輪聖王になるとしている場合も見られる。最後の二...どの戒律を守るかによって決まる将来
昨日アップした【正月の修正会についての雑考】でも申し上げたが、正月の修正会について、一部宗派では『大般若経』を読誦(転読)するけれども、それだけが法会としてあるわけではないことを指摘した。一方で、何故、『大般若経』を、正月修法などで読むと功徳があるのか?その辺を説明する必要を感じたので、簡単に紹介しておきたい。然るに法師。此の経を翻ずる時、汲汲然として恒に無常を慮う。諸僧に謂いて曰く、「玄奘、今年で六十有五なり。必ず此の伽藍に於いて卒命することに当たる。経部甚大なり、毎に終わらざることを懼るる。努力するの人、勤懇を加えて、労苦を辞すること勿れ」。龍朔三年冬十月二十三日に至り、功畢りて絶筆し、六百巻に合成して、称して、『大般若経』と為す。合掌歓喜して、徒衆に告げて曰く、「此の経、漢地に縁有り。玄奘、此の玉華を来す...『大般若経』には何故功徳があるのか?
日本仏教の一部宗派では、正月三が日を「修正会」などと称して供養を行う場合があった。なお、更に『大般若経』の読誦(転読)で行う場合もあるというが、どうも色々と調べてみると古い法会としては、『大般若経』では無かったようである。日本での修正会は、「修正月会」の略であるとされ、毎年正月の始めに3日か7日、玉体護持・国家安泰や五穀豊穣などを祈願するものであった。古い記録としては、7世紀後半の持統天皇の時代に正月の諷経が行われていたようだが、いわゆる「修正会」そのものとは少し形が違う。この辺、奈良・薬師寺のサイトなどに詳しいので見てみるが、同寺では、「吉祥悔過法要」を行うという。この法会は、吉祥天女を本尊として勧請し、悔過(懺悔)を行うものだという。正直、当方はこの法要について全く詳しくないので、今回、先行研究として佐藤道...正月の修正会についての雑考
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