聖書に基づくイエス様の救いの証をお語り下さい。短くても結構です。
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【恐怖】タイのピチットの瞑想寺で41の遺体を発見!
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12/14(土)18:30~22:00 「東京ワーク参加募集」(夜間開催)
#Glimpse #Uprightness 【Monologue by Awakening 7】
「神聖なる視力」の覚醒
キャンドルの光がもたらす効果とは
レプティリアンによる陰謀を阻止せよ!
スピ的護身~暴力をねじ伏せた祈り。③
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#ヒーリングの次元とカルマ 【11/16(土) 東京ワーク ~所感と解説~】
カチャペペ(グリーンパパイヤ)のベンガル料理。
隣県の自修会に行ってくる。
またまた講座受けてます。
SNSで議論している中である人から次のような言葉が出てきた。『私は唯物論者なので、見える通りに世界はあると考えてます。』しかし、唯物論者は「見える通りに世界はある」と考えることはできないはずである。なぜなら、世界には物質しかなく、現象はすべて物質の相互作用に還元されてしまうものと考えてしまうからである。だとすると、今見えているのも物体そのものではなく、物体から反射された可視光が私の視神経を刺激しているからだと考えなくてはならない。つまり、見えているのは物体そのものではなくセンスデータであるということになる。それでは唯物論者にとって物の実在は推論上のものとなってしまう。カントの「超越論的実在論者は経験的観念論者である」という言葉はこの辺の事情について述べているのだと思う。「見える通りに世界はある」と考えるのは禅者...禅的一元論
ひと頃、機械論的運命論というものが流行ったことがある。この世界の全ては原子とか素粒子というものでできていて、それらが物理法則に支配されているかぎり、すべては物理法則に従って変化する筈である、という考えである。人の精神もすべて脳内の物理現象に還元されてしまうので、人間には本当の自由などというものはなく、すべての運命は物理法則によって決定されている、と言うのである。だとすると、我々は自分が自由に行動しているつもりでも、それはあらかじめ決定されていて、実は機械のように動いているだけだという事になる。そこにはもう自由意志などというものはない、何をやるにしてもあらかじめ決まっていたことをなぞっているだけなので、何をやってもそこに責任などというものはないという事になる。量子力学という分野の不確定性理論というものができてから...運命論と自由と責任
「龍樹の『空』と禅の『空』は異なる」と主張しているブログを見つけた。では、正しい解釈というのはどういうものかと言うと、次のように述べられている。【私たちはふだん『ものがあって私が見る』という見方をしています。それを善では色(しき)の見方と言います。しかし、モノゴトにはもう一つのみかたがあるのです。それが空(くう)の観かたです。(繰り返しますが、見かたと観かたと区別しているのでご注意ください。いずれも「みかた」です。)『空』の観かたによれば、『私がモノを見るという体験こそが真の実在だ』というのです。】表現に少々難はあるが、言いたいことは理解できる。禅を実践している方々の中にはこのように理解している人も多いのではないかと想像する。そのように思うのは、私自身もかつて「空」をこのように理解していたことがあるからだ。西田...空とはなにか
生まれたての赤ん坊はものを見ることができないと言われている。視力がないという意味ではなく、見えているものを認識することができないという意味である。パパやママが盛んに赤ん坊の顔を覗き込んでも、赤ん坊の側からは何かがうごめいているとしか見えない。ママの顔の輪郭線の内側と外側の区別もつけることができないのである。心理学的には、「ゲシュタルトが構成できない」という状態にあるらしい。このことから分かることは、混沌の中からゲシュタルトを見出すには何らかの経験が必要だということである。上の図はいわゆる「アヒルウサギ」と言われているものだが、見ようによってアヒルに見えたりウサギに見えたりする。しかし、アヒルとして見る時はウサギは見えなくて、ウサギとして見る時はアヒルを見ることはできない。このことから判断して、赤ん坊でない私たち...空とはなにか(2)
ウィトゲンシュタインの哲学と禅が近しいということはよく言われることである。彼の人物像というのは禅者からは程遠いのだが、その思考から出てくる言葉がまるで禅者が語っているのではないかと思えるようなことが多いのである。思考し表象する主体は存在しない。(「論理哲学論考」5.631)上記の文言については過去記事にても紹介したので説明は省略する。(参照==>「思考し表象する主体は存在しない」)今回は「哲学的探究」という書物の中から二つの言葉を紹介したい。哲学はすべてをあるがままにしておく。(第124節)哲学はすべてをただ提示するだけであり、何事も推論しない。----すべてがわれわれの眼前にあるのだから、説明すべき何事もない。なぜならば、たとえば、隠されているものには、われわれの関心はないからである。(第126節)ウィトゲン...ウィトゲンシュタインと禅
人は一般に、現実は理論に従うものと思いがちだが、実はそうではない。まず現実があって、理論はそこから導き出されるのである。理論はいつでも現実を説明するためにのみある。あまり理屈とらわれているとそこのところを忘れがちになる。禅の公案に「鐘が鳴るのか撞木(しゅもく)が鳴るのか。」というのがある。一見、これは鐘が鳴る機序を問うているようだが、実はそうではなく、「ゴーン」となるその音そのものを了解せよと要請しているのである。学校で物理学などを学ぶと、「この鉄の塊は固くて稠密に見えるけれど、これを構成する原子は中心部に小さな原子核があって、その周りをもっと小さな電子がまわっていて、ほとんどスカスカの空間がほとんどなんだよ。」などと言い出す。しかし、このスカスカの原子モデルというのは、鉄が固くて稠密であることを説明するために...理論があって現実があるのではなく、現実があって理論がある。
無門関第35則「倩女離魂」を現代的な視点から論じてみたいと思います。(公案の内容についてはこちらを参照=>「倩女離魂」)科学が進歩して、どんなものでもそのまま遠隔地に移動させることができる瞬間移動装置というものが出来たと仮定します。その機械は発信カプセルと受信カプセルとからなっており、発信カプセルの中のある時点での状態を素粒子単位まで分析し、その情報を受信カプセルに送信して、受信カプセルではその情報に従って、当該時点の送信カプセルの中の状態を素粒子レベルで復元するわけです。で、例えば送信カプセルに私が入ってその機械を作動させると、送信カプセルの中の私は解析処理で分解されてガスになってしまうが、受信カプセルの中でそっくりそのまま復元されるので、私の姿形はもちろん記憶も性格もなにもかもそのままで移動したことになると...現代版「倩女離魂」
(前回記事「現代版『倩女離魂』」の続きです。)ライプニッツが言うように、「あらゆる属性が同一であればそれはもう同一物である」ならば、送信カプセルに入った私と受信カプセルから出てきた私は同一人物となる。現に受信カプセルから出てきた私は、記憶が連続しているわけだから、自分が送信カプセルに入った私であると確信しているでしょう。しかし、私は絶対に受信カプセルに入りたいと思わない。送信カプセルから出てきた私が私であるあらゆる要素を備えていたとしても、私に酷似した他人であるかも知れないからです。私と他者を区別する一番重要な点は、「この世界が私の視点から開かれている」というその事実です。永井均という哲学者はそのことを「世界の開闢」と表現します。世界が私から開けているということこそ、私が私であるということ、それは「世界があるこ...天上天下唯我独尊私は比類なき私である
先日の「美しい花がある。『花』の美しさといふ様なものはない。」という記事について、ある方からいろいろご指摘を頂いたので改めて考えてみた。どのような現象にもその背後には何らかの「力」が働いていると私たちは考える。不可避的にそう考えるのは、私たちが常に一般化への欲求を持っているからだろう。ニュートン以前は、リンゴが木から落ちるのは「物は下へ行きたがる」からであると考えられていた。日常的なレベルではこれだけで十分である。あえて万有引力というものを持ちだす必要もない。しかし、人間の活動範囲が広がっていくとそれでは説明のつかないことがたくさん出てくる。ニュートンの万有引力の法則は単純なものであるが、広大な領域で起こってたいる現象を説明することができる。万有引力という一つの概念を導入することで、いろんなことの説明ができるよ...再考「美しい花がある。『花』の美しさといふ様なものはない。」
大乗仏教では、あらゆるものは自性をもたない、すなわち空であると説く。自性というのは、他のものと関係なくそのものがそのものであり得るような本質を意味する。ギリシャ哲学でいうところのイデアである。人間は一人々々みな違っているのに、それぞれが人間であると分かるのは、人間としての本質というものつまり人間のイデアが存在するからである、とプラトンは説く。だとすると、人間のイデアというのは人類誕生以前から、そして人類滅亡後も永遠に存在するということになる。一方、大乗仏教はそのような永遠不滅かつ固定的なものは存在しないと説く。もし人間のイデアが存在するなら、進化の過程で人間以外から生まれた人間が存在することになり、その境界が明瞭でなければならない。誰がその境界を見定めることができるだろうか?そのようなものはありはしない。無常な...色即是空空即是色
少しでも禅をかじったことのある人ならだれでも知っているでしょう、無門関の第一則です。臨済宗では「隻手音声」と並んで初関として与えられることの多い公案です。公案の内容はいたって簡単です。趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし)に環(かえ)って仏性有りや也(ま)た無しや。」州云く、「無。」(ある僧が趙州和尚に「犬にも仏性がありますか?」と問うたところ、趙州は「無」と答えた。)おそらく参禅者は「無」の一字に集中するよう指導される。そして日がな一日中むーむー言っていることになる。一生懸命やっていれば、そのうち自分が無か無が自分かという状態になる。いわゆる三昧です。そうなればそのうち「はっ」と気付く。思わず大声で「無ーだぁ!」と叫びたくなるかもしれない。いわゆる概念の崩壊である。あらゆるものの差別相がなくなり、いかなるもの...狗子仏性(趙州無字)
第三十一祖大医禅師は、十四歳のそのかみ、三祖大師をみしより、服労九載なり。すでに仏祖の祖風を嗣続(シゾク)するより、摂心無寐(ムビ)にして脅不至席なること僅(ワズカニ)六十年なり。化(ケ)、怨親(オンシン)にかうぶらしめ、徳、人天にあまねし。真丹の第四
福州玄沙宗一(ゲンシャシュウイツ)大師、法名(ホウミョウ)は師備、福州閩(ミン)県の人也。姓は謝氏なり。幼年より垂釣(シチョウ)をこのむ。小艇(コブネ)を南台江にうかめて、もろもろの漁者(ギョシャ)になれきたる。 唐の咸通(カンツウ)のはじめ、年甫(ネ
かなしむべし、はづべし、仏祖行持の功徳分より生成(ショウジョウ)せる形骸を、いたづらなる妻子のづぶねとなし、妻子のもちあそびにまかせて、破落ををしまざらんことは。 邪狂にして身命(シンミョウ)を名利の羅刹にまかす、名利は一頭の大賊なり。名利をおもくせば
破顔は古(イニシエ)をきく、得随は祖に学す。 しづかに観想すらくは、初祖いく千万の西来ありとも、二祖もし行持せずば、今日の飽学措大(ソダイ)あるべからず。 今日われら正法を見聞(ケンモン)するたぐひとなれり、祖の恩かならず報謝すべし。その報謝は、余外(
真丹(シンタン)第二祖、太祖正宗普覚(ショウシュウフガク)大師は、神鬼(ジンキ)ともに嚮慕(キョウボ)す、道俗おなじく尊重(ソンジュウ)せし高徳の祖なり、曠達の士なり。伊洛に久居して群書を博覧す。くにのまれなりとするところ、人のあひがたきなり。 法高徳
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ここでは、「妖精」「妖精の森」「おとぎの國」についてのイメージを、共有し合います。どこかで見た絵夲やファンタジー小説、夢に出てきた世界など、何でも。 また、リアルに妖精の森のような未來を望む書き込みも大歓迎です。 但し、旧スピ的発想や、宗教の勧誘、政党政治の推進、メディアを鵜呑みにしたり恐怖を煽るような書き込みは、すべて却下します。
アフリカ出身の夫と国際結婚し、その生活の中で体験したり学んだり考えたりしています
「純粋な」哲学の話題であれば、何でもどうぞ。 宗教、スピリチュアル、ポエム、政治、社会問題は却下です。 科学哲学は認めます。 なお、オープンな議論を促進するため、コメント機能を有効にすることが望ましいです。
スピリチュアルに触れながらも、それに傾倒しない哲学・思想などを語ってください。 直接的なスピリチュアル批判の場合は、なるべく理性的にお願いします。 スピリチュアル的な考え方は好きだけどハマり過ぎるのは考えもの、という緩い準アンチの方も考えをお聞かせください。 スピリチュアルの構造の客観的な分析なども歓迎です。 みんなの理性を結集してスピリチュアルに対抗しましょう。 なお、オープンな議論を促すためにコメント機能を開放することが望ましいです。
自分を変えようとして苦しんでいる人は多くいます。実は自分を変えようとしていることが間違いなんです。そもそもそのそのままの自分で幸せに暮らすことができます。それができるならみんなそのままの自分で暮らしたいと思っていると思います。そんなそのままの自分で幸せに暮らすためのヒントを発信します。
「奇跡」を司るのが「神」 時間・空間・物質に「奇跡」が起きた。 生命は「奇跡」の連続 「大いなる意思」は「神の愛」 人間は皆、「神の子」です。