聖書に基づくイエス様の救いの証をお語り下さい。短くても結構です。
真のお母様を本当に愛するということ
【行事案内】信教の自由を考える石川フォーラム(24日)
私は毎日、真のお母様と会話をしています 良心の声はTM 《自己牧会プログラム》
椅子取りゲームは、初めから誰が勝つかは決まっていないのです。
私の代々木聖地巡礼 “エリコの城壁”、銀杏の実からの呼びかけとは・・・ 《制作の舞台裏から》
【天聖経】より 「み言」三昧・・・
家庭連合、不当寄附勧誘防止法違反は施行後”0件”の発表報告を受けて
よく来ましたね、あなたたちの役割が重要 《日本の教会長たちへ*真の母のみ言》
神様の定義:被造世界に対しては、性相的な男性格主体
国のため、世界のために祈る人が成長する?! 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》
心も体も暖まりたい、ですね・・・。
私たちは守られている! 思ったより苦労している善霊たち 《北谷先生*霊人はいつも一緒》
ノア家庭から今の現状がみえます・・・
男性格主体の神様
北でキリスト教が根絶やしにされ、やくざがいなくなった理由 《金元弼先生》
いよいよ令和2年も今日と明日で終わりとなる。今年は、新型コロナ禍の関係で、例年通りの過ごし方が出来ないため、外出が著しく減った関係で、季節感がほとんど無い。日付を見て年末を知るようなものである。ということで、せめてこの記事でもって年末を知りたいものである。ところで、道元禅師の『永平広録』を見てみると、「除夜の小参」が行われていることは理解できるが、それ以上の行持は不明。なお、除夜の鐘は伝統的な行持ではないので、古来の一切の記録に見出していない。ただし、「除夜昏鐘」という用語はいくつかの記録に見えるが、これは「除夜の日に行う昏鐘」ということで、日常的に行われている「夕方の鐘撞き」のことである。また、現在、「国立国会図書館デジタルコレクション」で、「除夜」及び「除夜の鐘」で検索してみると、大正年間より前は、「除夜の...洞門寺院に於ける年末行持について
2013年5月から始めたこの連載であるが、7年以上の歳月をかけて、この記事で終了となる。月1回で、全47回とあるから、本来なら4年程度で終わるはずだったが、拙僧個人の勉強不足が原因で、参究には思った以上の時間を要した。記事が掲載できない月もかなり多かったので、結局7年以上かかったのである。それで、最終回に因み、拙僧自身が本来懐いていた動機、「富永仲基『出定後語』で、「大乗非仏説」はどう説かれたのか?」について、結論を導いておきたい。まず、結論からすれば、富永は明らかに大乗仏教の説は、後代に作られたものという説を論証し、ゴータマ=ブッダ自身の直説ではないが、各部派の教説同様に、大乗もまたその一家であり、総体として、「仏家」の説であることは肯定している。この辺は、例えば、同じ儒教といっても、孔子の説のみならず、孟子...富永仲基の「大乗非仏説」とは何だったのか?(富永仲基『出定後語』を学ぶ47・終)
連載は11回目となる。『養老律令』に収録されている『僧尼令』の本文を見ているが、『僧尼令』は全27条あって、1条ごとに見ていくこととした。まずは、訓読文を挙げて、その後に拙僧なりの解説を付してみたい。なお、先日『令義解』の江戸期版本(塙保己一校訂本・寛政12年[1800]刊行、全10巻で『僧尼令』は巻2に所収)を入手したので、それも合わせて見ていきたい。凡そ僧は輙く尼寺に入ることを得ざれ。尼は輙く僧寺に入ることを得ざれ。其れ師主を観省、及び死病を看問ひ、斎戒、功徳、聴学すること有らば聴せ。『日本思想大系3』219頁を参照して、訓読は拙僧意味については、もはや説明を要しないかと思われる。つまり、男僧は尼僧の寺に入ってはならず、尼僧は男僧の寺に入ってはならないとしているのである。その基本的な戒めを示しつつも、例外事...第十二条・不得輙入尼寺条(『僧尼令』を学ぶ・12)
江戸時代の洞門が輩出した学僧・指月慧印禅師の主著である『荒田随筆』を学ぶ連載記事であるが、今は「戒定慧」という一章を学んでいる。早速、本文を見ておきたい。其れ慧とは、謂わく、二智・三智・四智・五智及び無量智、是れ亦た徳義用相に因み、真俗等の名体分る。或は証の尽・未尽に随って、其の深浅有り。今、其の義を論ぜず。直に智の克する所に就て言わば、慧の極は般若なり。初め色心蘊処界に従い、以て三昧陀羅尼・慈悲・不共法及び無上覚に至り、尽く般若に帰す。是れ唯だ帰する所のみにあらず。又た能く諸法を生ず、故に仏母・賢聖母・一切法母と称す。其の能く一切の法をして実相以て境と為し、無為・無相・無起滅・無増減・不顛倒・不垢浄、乃至、無所住なり。観照以て智と為し了了として仏性を見る。諸法の差・無差を見て分辨して錯謬無し。文字、以て詮と為...戒定慧(其の五)(指月慧印禅師『荒田随筆』参究22)
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載17回目である。17煉獄に置かれた魂にとっては、この慄きが軽減されるのに応じて愛が増し加わるのは当然である。深井氏下掲同著・17~18頁「煉獄」について、今年は『鬼滅の刃』の炎柱の名字と同じこともあり、調べたり理解する人も増えたのではないかと思うが、死者の小罪のある霊魂や罪の償いを果たさなかった霊魂が、天国に入る前に現世で犯した罪に応じた罰を受け、清められる場所だとされる。生者はミサや祈り、信心業などで煉獄の魂の苦しみを和らげたり、短くすることが出来るという(『岩波キリスト教辞典』「煉獄」項参照)。要は、煉獄の火とは、浄罪の火なのであり、結果として煉獄に置かれた魂は、その戦きが軽減され、愛が増...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・17
この辺の記事は、例えば【新渡戸稲造先生の「クリスマス所感」】でも指摘しているので、興味がある方はご覧いただければ良いと思う。それで、世間で「クリスマス」をどう理解しているか知らないが、良く聞くところでは、「イエス=キリストの誕生日」ということが言われるけれども、実はこれは正確とは言い切れない。そこで、日本のカトリック教会で「クリスマス」をどう定義しているかを確認しておきたい。さてクリスマスはキリストの誕生、すなわち、神のひとり子キリストの誕生を思い起こす日として古代から祝われてきました。イエスがいつ生まれたか、聖書には何も書いてありません。12月25日がイエスの誕生の日とする最古の記録は、4世紀のローマの「殉教者帰天日表」です。しかし昔は、地方によって1月6日に祝っていました。ちなみにロシア正教会は、今でも1月...クリスマス雑考(令和2年度版)
江戸時代の学僧である面山瑞方禅師(1683~1769)には、長蘆宗賾『禅苑清規』に収録される『亀鏡文』を註釈した『亀鏡文聞解』(『曹洞宗全書』「注解四」巻所収)が残されているが、それに興味深い一節が見られたので紹介しておきたい。僧の仏子と為り、応供殊無し、天上人間咸く恭敬するところなり。仏子とは梵網戒経に、即入諸仏位、真是諸仏子とありて、受菩薩戒より後は、在家出家共に仏子なり。けれども在家は応供の徳なし。出家は如来応供と少しもちがひなし。または十六尊者などヽ同輩にて、帰依僧と唱ときは、凡聖ともに一同なり。ゆへに天も人も一同に恭敬するあひてとなる。恭は心底にうやまふ、敬は身の低頭礼拝のことを云ふ、所はせらるヽこヽろよ。『亀鏡文聞解』、『曹全』「注解四」巻・620頁上段、カナをかなにするなど見易く改めるさて、今回注...出家と在家に於ける応供の違いはあるのか?
実世界での論文も書いているので、その中でのメモ程度ではあるのだが、とりあえず記事にしておきたい。それで、現在の曹洞宗の「教義」には、「禅戒一如」という語句が入っている。ところが、この用語については、それほど古くないのである。なお、成立経緯などは既に、【禅戒一如―つらつら日暮らしWiki】を書いているので、そちらを見ていただければと思うのだが、概念の成立については書き切れていない。そこで、この記事で補おうと思うのである。まずは、現状の「教義―つらつら日暮らしWiki」について見ておきたい。第5条本宗は、修証義の四大綱領に則り、禅戒一如、修証不二の妙諦を実践することを教義の大網とする。『曹洞宗宗憲』以上の通り、「禅戒一如」という言葉が見える。それで、教義にこの語が入った経緯については、特に人権の問題から論じられた報...「禅戒一如」の成立について
或る本を読んでいたところ、以下の一節が見られた。禅院・律院の山門や総門の前に建てる石碑に『不許葷酒入山門』(葷酒山門に入るを許さず)とあるのは一山全体を戒壇と見ることから起る。臨済宗連合各派布教団編『授戒』1988年この辺から、「戒壇」をどう扱うべきかを考えるべきなのだろう。この「不許葷酒入山門」については、「禁葷酒」など幾つかの表現があるが、要するに寺内に「葷(臭いの強い食べ物)」や、「酒」を入れてはいけないという話なのだが、果たしてこれが一山全体を「戒壇」と見なすことに繋がるという見解は妥当なのだろうか?それで、この石碑の典拠、どの辺なのだろうか?研究論文もあるとは思うが、とりあえず以下の一節を見ておきたい。一、本山及び諸山、凡そ黄檗の法属を称する者は、概ね葷酒の山門に入り仏の重戒を破るを許さず。「老人預嘱...「不許葷酒入山門」石碑の意義について
今日、12月21日は冬至である。そこで、禅門では「夏至」の説法は見たことがないが(あるのかな?)、「冬至」の説法は数多く残されていることから、拙ブログでも毎年、この日にはその説法を紹介するなどしているのである。そこで、今日は以下の一節を学んでいきたい。冬至の上堂。浮虚境上、晷運移り推み、枯木岩前、龍吟忽ち起る。陽曲初て報じ、蟄類密に動く。然も是の如くなりと雖も、実際の理地一塵を受けず、建化門頭、模を作し様を作す。畢竟、如何が体取せん。良久して云く、死中に活を得る。「宝慶寺語録」25上堂、『(訂字)義雲和尚語録』巻上・8丁表、原典に随って訓読これは、大本山永平寺5世・義雲禅師(1253~1333)がまだ、宝慶寺の住持であった時に行われた上堂である。どの辺が「冬至」なのか?と思う人もいるかもしれないが、詳しく見てい...冬至の説法について(令和2年度版)
とりあえず、【(2)】の続きである。江戸時代中期の学僧・隠之道顕禅師(1663~1729、卍山道白禅師の資)は、卍山禅師の道業を受け嗣いで、多くの授戒会で戒師を務めたことで知られるが、その語録が何故か『曹洞宗全書』に入っていないこともあり、その思想の研究は限定的である(拙僧が実世界で書いた論文などはある)。それで、縁があったので拙僧も色々と調べているのだが、その語録には「諸戒子に示す」という偈頌が4首収録されているので、一つ一つ見ておきたい。禅門無相金剛の戒、授受分明に古今を超ゆ。開遮持犯の迹を究んと欲すれば、宜く仏教に随て其の心を浄めよ。「諸戒子に示す〈四首の三〉」、『瑞光隠之和尚語録』巻11・42丁表、訓読は拙僧まず、「禅門無相金剛の戒」とは、六祖慧能禅師が戒弟に授けていた心地戒を示している。心地戒であるか...隠之道顕禅師「諸戒子に示す」偈参究(3)
以前にアップした【「六頭首」の一考察】の中で、「六頭首」を考えているウチに、そういえば「知庫」という、知客・知蔵・知浴・知殿に並んでいかにも「頭首」みたいな名称の役職なのに、実際には「六頭首」に入っていないことが改めて気になった。それで、この記事では「知庫」という配役について調べてみるものである。それで、まずは漢訳律典を調べてみると、以下の記述を見出した。客比丘、遂に庫を開き、偸みて鉢を将ち去れば、知庫比丘、応に鉢を償うべし。『善見律毘婆沙』巻9、『大正蔵』巻24・738cこの『善見律毘婆沙』であるが、5世紀に学僧ブッダゴーサが現在のスリランカで撰述した律蔵註釈書の抄訳だとされる。つまりは、上座部系の律蔵に対する註釈である。他の律典に「知庫」が見られないのは、「律」本文には無くて、註釈書にあるからであろう。とい...「知庫」って何だ?
曹洞宗宗務庁から刊行されている『曹洞宗近世僧伝集成』は非常に優れた資料集であるが、その中に、今回検討する大愚良寛上人(1758~1831)の伝記が6本収録されている。題名等は以下の通りである。①「良寛禅師伝」②「良寛禅師碑石並序」③「良寛道人略伝」、『良寛道人遺稿』④「良寛伝」、『近世偉人伝五篇』巻下⑤「良寛禅師木鉢記」⑥「大愚良寛上人碑」そこで、上記の伝記を横断的に見ながら、良寛上人の伝記上で、僧侶の資格などをどう考えているのかを見ておきたいと思う。なお、何故こういう問題意識を持っているかというと、良く知られているように、元々越後国(現在の新潟県)出身の良寛上人は、地元の曹洞宗寺院で出家した後、備中円通寺の大忍国仙禅師に参じて、印可証明を受けたという。しかし、その後、本山への瑞世拝登などを行った形跡がなく、そ...大愚良寛上人の伝記から探る僧侶の資格について
永平義雲禅師(1253~1333)は大本山永平寺5世で、中興と位置付けられている。そこで、義雲禅師の語録には、小仏事の法語が数首収められているが、その内の2首が最近の拙ブログの内容に適したものである。よって、訓読をしながら、その内容を学んでみたい。有を離れ無を離れ戒を以て心地と為す、男に非ず女に非ず善を以て荘厳と為す。既に有無を離れ男女を越ゆ、其の間に生滅有りや也た無しや。生と大地と共に来たり、死と虚空と同じく去る。所以に道わく、生とも也た道わじ、死とも也た道わじ、甚と為てか恁麼なる。従来の生死相い干からず、而今什麼の処に向て去り、足下に雲生ず。「戒善大姉起龕」、『(訂字本)義雲和尚語録』28丁表~裏この「戒善大姉」という人については詳細不明(もしかしたら、最近の研究成果では判明しているかもしれないが)である。...永平義雲禅師の小仏事法語(1)
敢えて日蓮聖人ではなくて、日蓮宗としたのは、拙僧自身まだまだ他宗派の参究が十分ではないということから、あくまでも現状を確認するための、一試論として記事にしようと思ったためである。よって、当然に内容は不十分であるから、この記事を読んだ日蓮宗の関係者の方は「おい、全然違うぞ」と仰るかもしれない。所詮は天魔の禅僧である拙僧、もちろん、それは折り込み済みであるから、それらのご意見は、是非にメールかコメント欄へのコメント投稿によって開陳いただければ幸いである。以前、何人かの日蓮宗関係者の方から聞いたのだが、日蓮宗はほとんど戒文の受持は行わないらしい。我々曹洞宗であれば、三帰・三聚浄戒・十重禁戒という十六条戒を持つし、天台宗であれば軽重五十八戒であろうし、声聞戒ならば二五〇戒(或いはその前後)を持つであろう。そのような状況...日蓮宗の持戒観(試論)
以下の一文を見ておきたい。人、貧賤なりと雖も能く持戒すれば、富貴にして破戒なる者に勝る。『大智度論』巻13「尸羅波羅蜜義第二十一」それで、この一節は、以下の偈頌に対しての註釈である。貴にして無智なれば則ち衰と為る、智にして憍慢なれば亦た衰と為る。持戒の人にして毀戒すれば、今世後世一切衰なり。同上これは、或る意味拙僧自身の戒めとなっている偈頌でもある。これは、貴人がもし無智であれば衰えるという。更に、智人がもしその智慧に驕れば衰えるという。そして、持戒の人が戒を毀せば、今世も来世も一切全てが衰えるという。これは、もし縁があり、何らかの境涯などを得たとしても、それに驕ってはならず、一切の衆生に巡らすべきだと考えるべきだといえよう。さておき、拙僧的に不思議なのは、この偈頌への註釈として、なぜか、持戒・破戒という二分法...『大智度論』に見える持戒の功徳について
なんだか、良く分からないが、やっぱり指導者がいなくなったり、将来への展望が無くなったりすると、集団で死を選ぶなんてことがあるんだろうか?ということで、早速以下の一文を見ていただこう。如来、若し涅槃に入らんには、我等、云何が是の毒身と同共し止住して梵行を修せん。我等、亦、当に仏世尊に随って涅槃に入るべし。爾の時、仏、諸比丘に告げたまわく「汝等、応に是の如き語を作すべからず。我、今、所有の無上の正法、悉く以て摩訶迦葉に付嘱す。是の迦葉は、当に汝等の為に大依止と作るべし。猶お如来の諸衆生の為に依止の処と作るが如し。摩訶迦葉、亦復た是の如し〈以下略〉」と。『大般涅槃経』巻2・寿命品・・・摩訶迦葉、ありがたや~合掌。と、いきなり禅宗自画自賛的な状況になってしまったが、もしこれで、ブッダが適確な道筋を弟子達に示すことがなけ...え?仏教教団集団自死ですか?
ラーフラとは、ゴータマ=ブッダの実子とされる僧侶のことである。無論、ブッダがまだ在家であった時に生まれた子供で、自分の出家などに際して邪魔になることから、「邪魔者」を意味するラーフラ(羅睺羅)と名づけたという。それで、後には「釈尊十大弟子」などに数えられる(密行第一と称される)ことから、釈尊の弟子だと思ってしまうが、実際にはそうでも無かったらしい。例えば、後の文献ではあるが、原始仏教から部派仏教へと展開していく状況について記した文献には、このように書かれている。舍利弗、是れ羅睺羅の和上なり。羅睺羅、是れ可住子の和上なり。此の部、復た是れ可住子の弟子なり。舍利弗、仏の「九分毘曇」を釈して『法相毘曇』と名づく。羅睺羅、舍利弗の毘曇を弘む。可住子、羅睺羅の所説を弘む。此の部、復た可住子の所説を弘むるなり。吉蔵『三論玄...ラーフラの師匠は誰だったのか?
様々なブログを見てみると、落語に於ける「寿限無」の話の原典のような位置付けをされていることもある説話が、『沙石集』に収録されているという。以下の記事などはどうか?・中世トリビア(その14)(京に癒やされ)しかし、長年の読者の方はよくご存じのことだと思うし、興味のある方は【検索:沙石集(つらつら日暮らし)】をご覧いただければ良いと思うのだが、拙ブログでもほぼ全巻にわたって『沙石集』を読み解いてきた。しかし、その話は採り上げなかった。その理由も分かったので、雑感も含めて記事にしておきたい。或女人、出家のため山寺へのぼりて髪をそりてけり。出家師、法名をつけまいらんといへば、法名は先より案じてつきて候なりといふ。いかにつかせ給て候や、といへば、仏といひ神といひ、我信じたのみまいらせて候が、なつかしくすてがたく候。ままに...『沙石集』に見る「長すぎる法名」の話
とりあえず、以下の一節を見ておきたい。戒は是れ無上菩提の本なり、応当に具足して浄戒を持すべし。若し能く具足して浄戒を持すれば、一切の如来の讃歎する所なり。『大方広仏華厳経(六十華厳)』巻6「賢首菩薩品第八之一」、『大正蔵』巻9・433bこれは、文殊菩薩が賢首菩薩について偈でもって讃歎した中の一部である。意味はもう解説するまでも無い。戒とは無上菩提を得るための原因であり、まずは戒を受けて具足し、清らかなる戒を持つことを説いているのである。そして、もし浄戒を持つのは、一切の如来が讃歎すると述べているのである。まぁ、ここまでは大した話では無い。それで、拙僧はこれを、手元にある南山道宣『教誡律儀』(江戸期の版本)の冒頭に、「律儀依拠の経論、一二を出だす」とあるのを受けて理解したものである。他にも、『大般涅槃経』『大智度...『華厳経』に見る持戒讃歎の偈
とりあえず、以下の一節を学んでいきたい。参遊の始め、律師覚彦の梵網経を講ずるを聴く。殺生戒に至り、南泉斬猫話を引いて、甚だ之を排斥す。師、憤然として律師を責めて曰く、南泉の恁麼の行令、且く道え、是れ殺と為すや、是れ不殺と為すや。律師、黙然たり。師、曰く、宗趣区別す。概論すべからず。徒に局解を逞しくすれば、亦た誤らざらんや。律師、点首して、其の言を然りとす。『加州大乘寺大機行休禅師伝』、『鷹峯聯芳系譜』巻中所収これは、加賀大乘寺34世・大機行休禅師(1666~1730、卍山道白禅師の法嗣)の伝記の一節であるが、ほぼ同じ内容が大機禅師の塔銘などにも記載されており、良く知られていることだったのだろう。経緯としては、元々上州吾妻郡沼田庄出身であった大機禅師は地元の洞門寺院で出家後、江戸に上り覚彦(または玄)律師に参じ、...「不殺生戒」を巡る一問答
今日12月9日は断臂摂心である。断臂とは、中国禅宗二祖慧可大師が達磨尊者を嵩山少林寺に訪ねて、雪の中に立って法を求めたにも関わらず、入室を許されなかったため、自ら左臂を切断して達磨尊者に献げ、求道の真心を示した故事を指す(立雪断臂・腰雪断臂ともいう)。断臂摂心とは、この慧可大師の故事を慕い、そこまでして法を伝えて下さった恩に報いるために12月9日の夜に行われる徹夜坐禅を指し、翌朝に断臂会の上堂を行う。現代では、一部の僧堂で、断臂摂心が残っているが、断臂会は上堂そのものの衰退により、古来の形では実施されていない。なお、断臂摂心・断臂会を行うのは曹洞宗のみとの先行研究もある。道元禅師には、断臂会とは明記されていないものの、12月10日に断臂に関わる内容で上堂(『永平広録』巻5-392上堂)をしたことが知られ、また、...今日は断臂摂心(令和2年度版)
今日12月8日は釈尊成道会である。或る程度分かりやすい文章については、曹洞宗宗務庁『禅の友』令和2年12月号巻頭の次に、拙文を投稿させていただいたので、それをご覧いただきたい。それで、こちらはやはり、釈尊成道に因む祖師方の教示を参究することとしたい。同〈仏成道三首の二〉三祇を果滿して道始めて成ず、放光動地群生を度す。一声鶏唱の五更の月、枕上誰人か夢未だ醒めざらん。『大智禅師偈頌』上3首、承応3年版『大智禅師偈頌抄』上2丁表に従って訓読臘八摂心7日目に採り上げた祇陀大智禅師(1290~1366)の偈頌から、「仏成道」を参究してみたい。なお、既に1首目は【平成28年度・釈尊成道会】で採り上げている。まず、偈頌の意味であるが、釈尊の成道までには、前生として三阿僧祇劫を費やしたとされ、その果が満じて仏道が成じた。釈尊成...今日は釈尊成道会(令和2年度版)
今年度の臘八摂心も、まずは今日が実質的な最終日である。無論、今晩は本来、徹夜坐禅の日ではあるから、今日か?明日か?という区分は余り意味が無い。ただ、一応の区切りとしておきたい。そこで今日は、瞎道本光禅師註『大智禅師偈頌』「覧正法眼蔵坐禅箴」を参究しておきたい。これは、『正法眼蔵却退一字参』の『坐禅箴参』の巻尾に附録として収録されているものである。中世曹洞宗を代表する一人の祇陀大智禅師(1290~1366)には『大智禅師偈頌』が残され、五山版が刊行されるなど中世から参究されたというが、やはり近世洞門内に於ける参究は見るべきものがある。その中で、瞎道本光禅師は『大智禅師偈頌参註』や『大智偈頌関東弁矣』といった註釈を残され、後者については拙僧も実世界で少しだけ研究したことがあるが、宗乗眼を高く着けたところからの優れた...瞎道本光禅師註『大智禅師偈頌』「覧正法眼蔵坐禅箴」参究(7・令和2年度臘八摂心)
今年度の臘八摂心用の短期連載である。江戸時代の洞門学僧・瞎道本光禅師(1710~1773)の『永平広録点茶湯』「坐禅箴」を学んでいくものである。なお、註釈される本文の区分は以下の通りである。永平高祖坐禅箴①仏仏要機、祖祖機要。不思量而現、不回互而成。②不思量而現、其現自親。不回互而成、其成自証。③其現自親、曾無染汚。其成自証、曾無正偏。④曾無染汚之親、其親無委而脱落。曾無正偏之証、其証無図而功夫。⑤水清徹地兮、魚行似魚。空闊透天兮、鳥飛如鳥。⑥今日は6日目であるから、⑥の部分を読んでいくこととし、一応の連載を締め括っておきたい。なお、明日は、既報の通り、『大智禅師偈頌』「覧正法眼蔵坐禅箴」について、瞎道禅師が註釈を付けておられるので、それを見ておきたい。水清徹地兮、魚行似魚。このゆゑに、魚行似魚・鳥飛如鳥なり。...瞎道本光禅師『永平広録点茶湯』「坐禅箴」参究(6・令和2年度臘八摂心)
今年度の臘八摂心用の短期連載である。江戸時代の洞門学僧・瞎道本光禅師(1710~1773)の『永平広録点茶湯』「坐禅箴」を学んでいくものである。なお、註釈される本文の区分は以下の通りである。永平高祖坐禅箴①仏仏要機、祖祖機要。不思量而現、不回互而成。②不思量而現、其現自親。不回互而成、其成自証。③其現自親、曾無染汚。其成自証、曾無正偏。④曾無染汚之親、其親無委而脱落。曾無正偏之証、其証無図而功夫。⑤水清徹地兮、魚行似魚。空闊透天兮、鳥飛如鳥。⑥今日は5日目であるから、⑤の部分を読んでいくこととする。曾無染汚之親、其親無委而脱落。その曾無の宗を遍界していはく、無委而脱落とあり。即今の無委は委曲の義にあらず。委は猶委也。委尽、委落の義なり。いはば、ものをとりのけ、かたづけずして、はじめよりいつともなく、やりはらいな...瞎道本光禅師『永平広録点茶湯』「坐禅箴」参究(5・令和2年度臘八摂心)
今年度の臘八摂心用の短期連載である。江戸時代の洞門学僧・瞎道本光禅師(1710~1773)の『永平広録点茶湯』「坐禅箴」を学んでいくものである。なお、註釈される本文の区分は以下の通りである。永平高祖坐禅箴①仏仏要機、祖祖機要。不思量而現、不回互而成。②不思量而現、其現自親。不回互而成、其成自証。③其現自親、曾無染汚。其成自証、曾無正偏。④曾無染汚之親、其親無委而脱落。曾無正偏之証、其証無図而功夫。⑤水清徹地兮、魚行似魚。空闊透天兮、鳥飛如鳥。⑥今日は4日目であるから、④の部分を読んでいくこととする。其現自親、曾無染汚。ここをもて、自親・自証といふなり。法の不染汚なる寂滅を自・自といふ遍参なり。親と証とは一山河に大地なり。おどろくことなかれ。ほかのものまじえざる、それがそれなる究尽なり。まさにいふ、染汚さきより脱...瞎道本光禅師『永平広録点茶湯』「坐禅箴」参究(4・令和2年度臘八摂心)
今年度の臘八摂心用の短期連載である。江戸時代の洞門学僧・瞎道本光禅師(1710~1773)の『永平広録点茶湯』「坐禅箴」を学んでいくものである。なお、註釈される本文の区分は以下の通りである。永平高祖坐禅箴①仏仏要機、祖祖機要。不思量而現、不回互而成。②不思量而現、其現自親。不回互而成、其成自証。③其現自親、曾無染汚。其成自証、曾無正偏。④曾無染汚之親、其親無委而脱落。曾無正偏之証、其証無図而功夫。⑤水清徹地兮、魚行似魚。空闊透天兮、鳥飛如鳥。⑥今日は3日目であるから、③の部分を読んでいくこととする。不思量而現、其現自親。直にいはば、而現の現は不思量これなり。能所・彼此なき現の全現なり。不思量は一切法のつまりなる、それぎりをいふ。いはく、松の松なる法界については、尽界ただ松なるが如し。而今の父母の分骨肉すなはち未...瞎道本光禅師『永平広録点茶湯』「坐禅箴」参究(3・令和2年度臘八摂心)
今年度の臘八摂心用の短期連載である。江戸時代の洞門学僧・瞎道本光禅師(1710~1773)の『永平広録点茶湯』「坐禅箴」を学んでいくものである。なお、註釈される本文の区分は以下の通りである。永平高祖坐禅箴①仏仏要機、祖祖機要。不思量而現、不回互而成。②不思量而現、其現自親。不回互而成、其成自証。③其現自親、曾無染汚。其成自証、曾無正偏。④曾無染汚之親、其親無委而脱落。曾無正偏之証、其証無図而功夫。⑤水清徹地兮、魚行似魚。空闊透天兮、鳥飛如鳥。⑥今日は2日目であるから、②の部分を読んでいくこととする。仏仏要機、祖祖機要。仏々は要機なり。仏々のほか要機なし。その要機は坐禅なり。祖々の機要は千仏万祖は一人の坐蒲に蔵身するなり。仏々・祖々といふ重言ありぬるとて、かさねがさねの仏祖といふにはあらず。向上には仏々なり、向下...瞎道本光禅師『永平広録点茶湯』「坐禅箴」参究(2・令和2年度臘八摂心)
「此の坐より摂心」ということで、本日12月1日から、曹洞宗各地の僧堂及び寺院では臘八摂心が始まった。拙僧も、世務・校務の合間を使って、わずかではあるが坐したいと思っている。例年、この臘八摂心中には、坐禅に関する祖師方の教示を学ぶことを目標としており、今年度は江戸時代の学僧・瞎道本光禅師(1710~1773)の著作で、道元禅師の『永平広録』への註釈書『永平広録点茶湯』に収録されている『永平高祖坐禅箴』への註釈を学んでいきたいと思っている。なお、『永平高祖坐禅箴』については、『正法眼蔵』「坐禅箴」巻の巻尾に収録されており、瞎道禅師といえば『正法眼蔵却退一字参(特に「坐禅箴」巻への註釈は『坐禅箴参』という)』でも名高いので、そちらを学ぶのでも良いかな?と思っていたら、『坐禅箴』について以下のように書いてあった。吾の先...瞎道本光禅師『永平広録点茶湯』「坐禅箴」参究(1・令和2年度臘八摂心)
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