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11回目となる連載記事だが、義浄(635~713)による『南海寄帰伝』19番目の項目に「受戒軌則」があり、最近の拙ブログの傾向から、この辺は一度学んでみたいと思っていた。なお、典拠は当方の手元にある江戸時代の版本(皇都書林文昌堂蔵版・永田調兵衛、全4巻・全2冊)を基本に、更に『大正蔵』巻54所収本を参照し、訓読しながら検討してみたい。今回は、出家した僧侶の呼び方について見ておきたい。然るに西方の行法、近円を受けて已去て鐸曷攞〈訳して小師と為す〉と名づく、十夏を満つるを悉他薛攞〈訳して住位と為す〉と名づく、依止を離れて住するを得たり、又た、鄔波駄耶と為ることを得る。凡そ書疏の往還有るには、題して求寂某乙・小苾芻某乙・住位苾芻某乙と云う。若し其れ学、内外に通じ、徳行高く著くときは、便ち多聞苾芻某乙と名づく、僧...出家した僧侶の呼び方について(義浄『南海寄帰伝』巻3「十九受戒軌則」の参究・11)
連載は2回目であるが、実質的にはこの記事からとなるので、「1」となっている。本書だが、明治時代の戒律復興運動の立役者として知られる釈雲照律師(俗姓は渡辺、宗派は真言宗、1827~1909年)が、自身の学びの成果としてまとめられた文献である、『緇門正儀』(森江佐七・明治13年)を学ぶ連載記事である。今回からしばらくは、「第一官律名義弁」という項目の中身について、学んでいきたい。原るに夫れ梵土には、根本大師仏世尊、輪王刹帝利の尊位を捨て出家成道し玉ひしが故に、彼国に於ては、特に仏教を尊信すること、支那本朝に比に非ず、所謂国王親ら僧足を礼し、僧饌を供し、四事供養し玉ふが如し、豈に人天応供の真僧に、世間有漏の位官を賜ふの事あらんや、且僧も亦既に三界法王の真子たり、然るを却て彼土粟散国王の猶子等となるべけんや、阿難...「第一官律名義弁」其一(釈雲照律師『緇門正儀』を学ぶ・1)
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載34回目である。なお、今回から、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとし、著作権問題をクリアしたいと思う。また、その際、深井氏の下掲訳の訳文や註記を参照した。9〔34〕これまでに挙げた「贖宥の恩恵」は、サクラメントの満足の罰に関係し、人によって制定されたもののみである。訳は当方この「これまでに挙げた」はもちろん、前項の第33条までのことを指している。要するに、ローマ教皇による贖宥について、高価な神の恩寵であると信じる人がいれば、ルターは、その人を信用出来ないと述べているのだが、上記の第34条は、その理由を説明していることになる。ルターは、教皇の贖宥は、人間が制...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・34
そもそも『釈氏要覧』という文献は、中国宋代の道誠によって編集され、天禧3年(1019)に成立した。全3巻である。仏教の入門者に対して、仏典に見える故実を紹介し、また辞書のようにも扱われるように、様々な語句・名目についても掲載されている。そこで、今回は以下の一節を見ておきたい。受戒次第報恩経に優波離、仏に問うて云わく、若し五戒・十戒を受けざれば、直に具足戒を受け得るや否や。仏言わく、一時に三種の戒を得ん。又、問うに、若し爾らば、何ぞ須らく次第して、先づ五戒を受け、次に十戒を受け、後に具戒を受くるや。仏言わく、仏法に染習するに、必ず須らく次第すべし。謂わく、先づ五戒を受けて、以て自ら調伏し、信楽漸いよ益し、次に十戒を受け、善根、転た深し。後に具戒を受ければ堅固にして退くこと難きは、大海に遊ぶが如し。漸漸にして...『釈氏要覧』の「受戒次第」について
とりあえず以下の一節をご覧いただきたい。彼の人教えて云わく、「此の三衣の名、唯だ仏法のみに有り、九十六種の外道に無き所なり。何ぞ敬らざることを得んや。故に坐具・尼師壇、塔の基有るが如きなり。汝、今、受戒すれば即ち五分の法身の基なり、良を以て五分、戒に由りて成る。若し坐具無く、而も汝の身坐せば、則ち五分の定慧、生に従う所無し、故に坐具、塔の基の如きなり。三衣は三毒を断つなり。五條下衣、貪身を断ずるなり、七條中衣、瞋口を断ずるなり、大衣上衣、痴心を断ずるなり」。南山道宣『関中創立戒壇図経』「戒壇受時儀軌第九」この一節は、後代の文献でも引用されているようだが、やはり、御袈裟と三毒(煩悩)の関係を示すものなので、関心を持たれたのであろう。ここで書かれているのは、御袈裟への信仰と、御袈裟に関する或る種の譬えである。...御袈裟と三毒の関係について
『大日経開題』とは、弘法大師空海が『大日経』の意義を説き示しつつ、讃歎した文章とされている。今回は、その中から、以下の一節を見ておきたい。我等至心に三帰を受け、五智諸如来に帰依し、金剛最上乗に帰依し、不退菩薩僧に帰依し、三宝福田に帰依し竟んぬ、今従り善を作して悪を造らず、我れ五戒十善等を持し、我れ菩薩三聚戒を持し、今世・後世に闕犯すること無し、唯だ願わくは諸仏哀もて聴許したまえ。訓読は当方本来であれば、七言の詩偈であるから2句ずつ書くべきであろうが、意味的には、多分上のような分け方で良いはずである。この内容だが、まず至心に三帰を受けることを示し、特に真言密教に於ける「三帰」のあり方として、大日如来を中心とする五智如来に帰依し、金剛最上乗に帰依し、不退なる菩薩僧に帰依するという。この場合の不退は、二乗への退...『大日経開題』に見る三聚戒について
明恵上人(1173~1232)には多くのエピソードが残されているが、これも良く知られたエピソードだろう。或る時、建礼門院御受戒有るべしとて、上人を請じ申されて、御身は母屋の御簾の内に御座して、御手計り指出し合掌して、上人をば一長押さがりたる処におき奉りければ、上人云はく、高弁は湯浅権守が子にて下もなき下臈也。然れども釈子と成りて、年久しく行へり。釈門持戒の比丘は神明をも拝せず、国王・大臣をも敬せず、又高座に登らずして戒を授け、法を説くは、師弟共に罪に堕する也と経に誡められたり。是法を重くし、いるかせにせざる故也、身をあぐるに非ず。かゝる非人法師をも御崇敬候へば、利益ますます多く、いやしみ眇直み給へば、大罪弥深し。いかに仰せ辱けなくとも、本師釈尊の仰せを背きて、諂ひ申す事は有間敷候。加様にては益なくして罪あ...明恵上人と高座について
この仏眼清遠禅師(1067~1120)という禅僧は、中国臨済宗楊岐派の五祖法演禅師の法嗣であり、兄弟弟子にはあの『碧巌録』で有名な圜悟克勤禅師などがいる。そこで、或る上堂が非常に興味深い内容だったので、見ておきたい。行者の落髪するに上堂す。露柱、多年出家す。燈籠、久しく已に落髮す。仏殿、禁戒を堅持す。三門、近く休歇を得る。大事、本来平等なり、著すること無き清涼なる満月。草木・叢林を度し尽くし、一に陽の和して斉しく発すに似たり、と。下座す。『古尊宿語録』巻27意味だが、行者という身の回りを世話している若者が、落髪、つまり出家したのに合わせて上堂されたという。意味するところは、上堂が行われた法堂の様子を踏まえて、露柱は多年にわたって出家をしているし、灯籠もまた、久しく落髪し了っている。仏殿は、禁戒を堅持してお...仏眼清遠禅師の「行者落髪上堂」
大乗仏教の戒思想の骨子となっている『梵網経(詳しくは「梵網経盧遮那仏説菩薩心地戒品第十」という。最近では中国成立の経典として扱われる)』を読んでいたところ、非常に面白い一節を見付けたので、今日はそれを紹介しながら、色々と考えていきたいと思う。爾の時、釈迦牟尼仏、初め蓮華蔵世界に現じしより、東方より来りて天王宮の中に入りて、魔受化経を説き已りて、南閻浮提の迦夷羅国に下生したもう。母を摩耶と名づけ、父を白浄と字く。吾を悉達と名づく。七歳にして出家し三十にして成道す。吾を号して釈迦牟尼仏となす。寂滅道場に於いて、金剛華光王座に坐し、乃至摩醯首羅天王宮にして、其中次第に十の住処にして説く所なり。時に仏、諸の大梵天王の網羅幢を観て因て為に説く。無量の世界猶お網孔の如し。一一の世界、各各不同別異なること無量なり。仏の...釈尊往復八千返
ちょっと以下の一節を見てみた。世尊の六処を説くが如し。何等をか六と為すや。謂わく、正法住、正法滅、波羅提木叉、比尼、出家、受具足となる。大乗の為の故に、此の六処を説く。何を以ての故に、正法住とは、大乗の為の故に説く、大乗住すれば、即ち正法住なり。正法滅とは、大乗の為の故に説く、大乗滅すれば、即ち正法滅なり。波羅提木叉、比尼、此の二法は、義は一にして名は異なれり。比尼とは即ち大乗の学なり。何を以ての故に、仏に依りて出家して具足を受くるを以てなり。是の故に、大乗の威儀戒、是れ比尼なり、是れ出家なり、是れ受具足なりと説く。是の故に、阿羅漢、出家と受具足と無し。何を以ての故に、阿羅漢は、如来に依りて出家して具足を受けるが故に。阿羅漢は仏に帰依す。阿羅漢は恐怖すること有り。何を以ての故に、阿羅漢は一切に於いて行無く...『勝鬘経』「一乗章第五」の「六処」について
浄土真宗の開祖とされる親鸞聖人の文章に、次の一節を見出した。まさにまた例を引きて自力・他力の相を示すべし。人、三塗を畏るるがゆゑに禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。禅定を修するをもつてのゆゑに神通を修習す。神通をもつてのゆゑによく四天下に遊ぶがごとし。かくのごときらを名づけて自力とす。『顕浄土真実行文類』いわゆる、『教行信証』「行巻」ということになるけれども、この一節は、曇鸞『往生論註』からの引用である。ここで、戒定慧の三学の意義が良く示されていることが分かる。まず、戒についてである。人が何故、戒を守るか?というと、曇鸞は、三途に堕ちることを恐れるから、禁戒を受持するのだとしている。三途に堕ちるということは、地獄・餓鬼・畜生という三道への堕落を意味している。戒を受持することが、個人的に身...禅定を行う目的は?
或る有名な映画で、おくりびと(納棺師)となり、ご遺体を扱ってきた主人公に対する家族の態度が気になった。或る種のケガレに触れるような態度であった。当方は、それを見ながら、一般的にはこれが普通なのかな・・・?と思った。例えば、亡き人のご遺体に関わるということであれば、僧侶も同じで、お檀家さんのご遺体に触れる機会がある。だが、当方自身はそれがケガレに関わると思ったことはない。何故だろうか?或いは、寺院関係者も同様で、当方の周りでは、枕経やお通夜に行ってきた僧侶に対し、家族があの映画のような態度を採ったなんて聞いたことがない。無論、当方の管見・側聞程度で、全ての事実を決める気はないが、この感覚の妙な違いが、どうにも気になっている。以前、或る場にて参加者が神道の神主さんからお祓いを受ける場面があった。正装というので...「おくりびと」と「ケガレ」と「御袈裟」
これがどういう経緯で書かれたものか、当方は良く分からないのだが、何故か手元に、恵心僧都源信が書いたという『自誓戒』作法の江戸期版本があるので、これを元に記事を書いておきたい。なお、この作法書であるが、もちろん『恵心僧都全集』の第5巻にも収録されているが、底本は『天台霞標』と、江戸時代の天和2年(1682)の版本とのこと。当方の手元にあるのは文政10年(1813)版なので、後刷の1本になるだろう。かなり小さめの折本になっていて、儀礼用に用いられたことは明らかである。そこで、この『自誓戒』作法だが、全体の差定は以下の通りである。なお、差定名は書かれていないので、当方の方で適宜判断して付したものである。一請戒二三帰戒(今身より尽未来際)三懺悔四四弘誓願五受菩薩戒(三聚浄戒・十重禁戒)六説戒七回向八回向頌以上であ...恵心僧都源信作という『自誓戒』作法について
以前、【『長阿含経』に於ける他宗教と仏教僧団について】という記事を書いたときに、この異学(要するに仏教以外の学問・宗教を学んでいた者。別の表現で外道だが、こちらは人権的問題を含む表現のため、あくまでも参考表記。取り扱いには注意されたい)が僧伽への加入を許可されるまでの待機期間について興味を持った。先の記事で、それは「四月」となっているので、4ヶ月ということになるのだろうし、その後の様子だと1安居くらいということなのだろうか。それで、他にも同様の表現があるのかどうか、或いは、この待機期間についての別表現があるのかどうか、確認しておきたい。時に迦葉、仏に白して言わく、「云何が瞿曇、我れ此の法中に於いて出家し具戒を受くることを得るや不や」。仏、迦葉に告ぐ、「若し異学の来たりて、我が法中に入りて出家修道を欲する者...異学の入僧伽待機期間について
今日6月10日は「時の記念日」とされる。『日本書紀』「天智天皇十年四月辛卯」条に、日本で初めて「時の鐘」が打たれたことに由来するという。この時の時計は、「漏刻」といって、水時計であった。それから、先の天智天皇の事績の日付は、「天智天皇10年4月25日」なのだが、これをグレゴリオ暦に変換すると「671年6月10日」となるため、今日をもって、時の記念日としたとされる。ということで、今日は時・時間・時節に関する教えを見ていく日としているのだが、以前【出家後の坐次の順番について(義浄『南海寄帰伝』巻3「十九受戒軌則」の参究・8)】という記事でも指摘した通り、比丘の順番は出家した時間で決まるのだが、その時間を定めるのに、日時計と同じ原理(日時計そのものではない)を使っていたわけである。これに関連して、気になる一節が...6月10日時の記念日(令和4年度版)
とりあえず、「日本古典籍総合目録データベース」で鳳潭を調べたら、『梵網戒本疏紀要引拠増補竜鳴斥謬』(享保13年刊)と『梵網経菩薩戒本疏紀要』(享保9年刊)がヒットした。両方とも、大正年間に刊行された『日本大蔵経』巻19「大乗律章疏一」に入っているので、容易に閲覧可能。あ、後者の『紀要』だけなら、当方も版本(全6冊)を持っている。よって、版本を見てみた・・・しかし、冠註本って何でこんなに見にくいのかね。だいぶ、慣れてはきたけれど、本文のどこと対応するか、良く分からないんだよな。でも、実は註記の方を追えば良いという話もある。だって、註記が大事で作ったんだろうし。で、江戸時代、鳳潭が賢首大師法蔵『梵網経菩薩戒本疏』を出してからそっちが流行ったらしいが、それまでは青丘太賢『梵網経古迹記』が主流だったという。でも、...何となく鳳潭『梵網経菩薩戒本疏紀要』を読んでみる
鎌倉時代の華厳宗・明恵高弁上人(1173~1232)の『伝記』や『夢記』を見ていると、逸話はもちろん、そのまま説話になりそうな話がほぼ全てといえるほど多い。それで、今回は以下の一節を読み解いてみたい。同年六月十五日より梅尾(引用者註:栂尾の古表記)の本堂にして梵網菩薩戒本両度の説戒始行せらる。其戒儀〈別記あり〉諸僧同じく列坐して共に戒文を誦す。其の説戒の間霊験多し。見聞し得たること、委しく註するに遑あらず。或は異香虚空に薫満し、或は霊物無形にして、異る音声にて共に誦す。或は異類六歳の小児に託して斎戒帰依の志を述べ、或は年来重病の者聴聞の砌に或は汗を流し或は嘔吐をして癒る類もあり。或は瘧病の者爰に臨みて聴聞の間に忽に癒るのみなり。是れ今に高山寺の恒例の勤めとなれり。奥田正造編『栂尾明恵上人伝記』昭和8年、漢...不思議不思議な明恵上人の説戒
手元に、明治期の神道の教義書である『善悪報応論』という版本がある。ただし、著者などは不明で、巻末の奥付には「大教院」とのみ書かれている。それで、本書だが読む前から、神道の教義の中に善悪の基準となる戒律的要素や、その報応を生む主体などがどう考えられているのかが気になった。そこで、見てみると、以下のような一節があった。又神事幽事とは同義にて鬼神を統治し霊魂を賞罰する幽界の神律なれは神祇の幽より執行ひ給ふ冥府の大政是なり『善悪報応論』1丁表~裏、カナをかなにするなど見易く改める(以下、同じ)ここを引いたのは、「神律」という表現が見えたためである。もちろん、どういう意味かは分からないのだが、日本の神が定めた律ということなのだろうか?そして、その内容は、霊魂を賞罰するという。忠孝の倫を乱り邪術を行て世俗を惑し人を害...神道教義書『善悪報応論』に見る戒律観
以前、取り上げたこともある尾張藩士の天野信景(1663~1733)が元禄年間から諸方の記録を書き溜めて著した文献で、全100巻もある『塩尻』は、天野自身の関心に従って記述された諸随筆の中に、仏教に関わる事柄も多く記載されている。今回は「○叡山戒壇」を見ておきたい。○叡山戒壇は弘仁十年、伝教、四帖式を製して奏聞せしに、南都七大寺我執を廃し支へ申ける。依之、伝教重ねて顕戒論を作り、声聞戒の外、円頓戒といふ事ありとて奏聞せしされども、在世の間は勅許なかりし。弘仁十三年六月四日、伝教死す。同月十一日戒壇の事、勅許ありて、即菩薩戒官府下りしと光定が記に見えたり。翌十四年四月十四日、義真和尚戒師として一乗止観院にて始て勅願の授戒を行ふ。是山門戒法の始なるより円頓戒儀秘聞書に見えたり。後世、三井寺に戒壇を立度よし、度々...天野信景『塩尻』に見る「叡山戒壇」論
いや、「大戒」があるのだから、「小戒」もあるだろうというご意見というか、ご質問を受けたので、記事を書いてみようと思うのだが、気が乗らない。いや、そこはかとなく、大小乗の問題になりそうな気がするためである。しかし、調べてみると意外とそうでもない。また、この途中で見出した「小小戒」という表現については、別の記事にしておくので、何かの機会にアップしたい。ということで、まずは以下の通り。問うて曰く、已に尸羅相を知る。云何が尸羅波羅蜜と為すや。答えて曰く、人有りて言わく、菩薩の持戒、寧ろ自ら身を失するとも、小戒を毀さず、是れを尸羅波羅蜜と為す。『大智度論』巻14「釈初品中尸羅波羅蜜義之余」これは、『摩訶般若波羅蜜経』の註釈であるが、ここに「尸羅波羅蜜」を論じる中で、「小戒」への言及がある。しかし、これは、「大戒」で...「小戒」という呼称について
「十二年の籠山行」という言葉、伝教大師最澄が定めた日本天台宗の修行体系だという。伝教大師の弟子の1人である光定は次のように述べている。最澄法師、国家のために備えて、園田を欲せず。酒とこの女とを入れざるを永代の常例として修学せしむ。十二年の山籠僧なり。『伝述一心戒文』要するに、伝教大師が国家のために役立つ僧侶を育てようとしているが、その場合、荘園などを欲せず、酒と女性を入れない道場で12年の籠山行を行うと定めたというのである。ということで、伝教大師の言葉の中で、どの辺が典拠になるのかを見ておきたいが、おそらくは以下の一節である。凡そ大乗の類は、即ち得度の年、授仏子戒を授けて菩薩僧と為す。其の戒牒、官印を請して、大戒を受け已り、叡山に一十二年住せしめて、山門を出でず、両業を修学す。凡そ止観業とは、年年毎日、法...天台宗の「十二年の籠山行」に関する雑考
6月2日、今日は「バラの日」らしい・・・え?何で?と思っていたら、「6(ロー)2(ズ)」で語呂合わせかぁ(;゜ロ゜)日本にしか通じないぞ。ということで、折角なので、仏教典籍を検索できるサイトで「薔薇」を検索してみた・・・まさかの大量ヒット!!え?これ、今の薔薇と同じ花?というか、「花」なのか?と思ったが、「薔薇」の字、草冠だから、植物は植物か・・・ということで、「薔薇」の字句が入った仏教の教えを紹介してみよう。桃紅・李白・薔薇紫、問著すれば春風、総て知らず。『続伝灯録』巻30「臨安府五雲悟禅師」章・・・色まで判明。どうやら、13世紀に中国で編集された禅宗関係の文献では、薔薇を「紫」だとしているようである。でも、中国原産の薔薇の画像を見てみると、ほとんど深紅とか、白とかのような気がするが、どれが紫だ?まぁ、薄い紫...6月2日今日は「バラの日」
今日は6月1日である。暦の問題があるが、旧暦では4月15日から禅宗叢林での夏安居が始まり、7月15日に安居が終わる関係で、6月1日はその中間日、いわゆる「半夏(または中夏)節」と呼称され、安居に随喜している大衆の修行状況の確認などがされたのであった。中夏の上堂、前半夏の間三三、後半夏の後三三。安居の清衆、直下に罷参すれば、阿呵呵、笑倒す西天の老瞿曇。『仏国禅師語録』これは、鎌倉時代に来日した中国僧・無学祖元禅師(1226~1286)の言葉である。日本にいた時に発せられた上堂語である。内容は、中夏なので、いわゆる6月1日に行ったものだけれども、まずは、前半の45日間については「三三」と述べた。これが分かりにくいのだが、「三」の重なりで無限を示すという見解もあり、よって、安居前半の無限の時間が過ぎ、そして、後半もま...六月一日半夏節
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