聖書に基づくイエス様の救いの証をお語り下さい。短くても結構です。
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前回の記事は、「悉多太子の修行について3」と題して、篤胤自身が釈尊のアーラーラ仙人の下での修行について、批評している言説を見たが、今回からは、篤胤が釈尊の苦行について論じているので、この記事で見ておきたい。さて悉多は阿羅邏仙人を調伏し、夫より伽闍山苦行林中に入り、尼連禅河と云川の側に、静座観想して苦行を修し、日に一麻を食し或は一米を食し、或は二日又は七日に一麻米を食す。『平田先生講説出定笑語(外三篇)』43頁、漢字などは現在通用のものに改めるまずは、以上のことから始まる。なお、この後、苦行に入った悉多太子を心配して、浄飯王が色々と世話を焼こうとする様子が語られているが、それは後述する。それで、上記の典拠は『過去現在因果経』巻3であるため、これまでと同様だといえよう。ところで、篤胤はまず、釈尊伝を辿りながら...釈尊の苦行について(拝啓平田篤胤先生18)
12回目となる連載記事だが、義浄(635~713)による『南海寄帰伝』19番目の項目に「受戒軌則」があり、最近の拙ブログの傾向から、この辺は一度学んでみたいと思っていた。なお、典拠は当方の手元にある江戸時代の版本(皇都書林文昌堂蔵版・永田調兵衛、全4巻・全2冊)を基本に、更に『大正蔵』巻54所収本を参照し、訓読しながら検討してみたい。今回は、他の僧侶の師となる条件について見ていきたい。凡そ親教師と為る者は、要ず須く住位して十夏を満足すべし。秉羯磨師及び屏教の者、并びに余の証人、並びに定年無し、幾の事、須く律清浄を解し、中辺数満ずべし。律に云く、「鄔波駄耶に非ざるを而も喚で鄔波駄耶と無し、阿遮利耶に非ざるを喚で阿遮利耶と為し、或は此の二を翻し、及び親しく鄔波駄耶の名を斥くは、皆、悪作の罪を得る」。『南海寄帰...師となる条件について(義浄『南海寄帰伝』巻3「十九受戒軌則」の参究・12)
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載35回目である。なお、英訳された『九十五箇条の提題』を、当方で日本語訳して掲載することとした。10〔35〕煉獄から魂を買い戻したり、告白の効果を購入したりするつもりの人に、悔い改めが必要ないことを教えるのは、キリスト教の教義を正しく説いていない。訳は当方この条は、いわゆる「贖宥状」の機能について、ルターが自らの見解を、かなり正面から論じた箇所であるといえる。つまり、煉獄に落ちた魂を救えないし、自分の罪を告白した時に得られる効果なども買えないとしているのである。つまりは、自ら自身が正しく悔い改めをしなくてはならないのだが、その件についてかなり曖昧にしていることも覗える。一方で、それが可能だ...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・35
今日は「幽霊の日」らしい。理由だが、江戸時代後期の1825年7月26日に、中村座で歌舞伎『東海道四谷怪談』(鶴屋南北作)が初めて公演されたためだとされる。それで、仏教の様々な説話を見てみると、幽霊に因むものが多いのだが、そういえば、『四谷怪談』で、亡霊となったお岩さんは救われたのだろうか?それで、作品の様子を見ると、結局は仇となった伊右衛門を討つことが目的となり、物語が終わるようで、それが本当の救済になったのかどうかは分からない。ただし、当時の世俗的な観念では共感されやすかった可能性について、否定はしない。そして、この物語では、仏教的な救済は無い。伊右衛門は、祟りから逃れることを目的とするためか、僧侶に祈祷や念仏をしてもらう様子があるが、効いていない。当然、亡者を救うことにもならないだろう。だが、それはあ...今日は「幽霊の日」らしい
先日のことだが、浄土宗の布薩会の作法書である『浄宗半月布薩式畧法』を入手した。そこで、内容を読んでおきたいと思う。なお、以下に本書の目録を書いておきたい(題などが無い場合は当方で付記している)。・題(華頂法親王表随喜題)・序(華頂山大僧正迎誉識)文政10年(1827)春2月・浄宗半月布薩式畧法(式次第)・附文(十三条)・刊記(権僧都定舜謹識)天保2年(1831)夏6月以上の通りで、本書は文政10年には編集されていたようだが、開版されたのは天保2年だったようである。そこで、今回は「序」を学んでみたいと思う。浄宗半月布薩式畧法序半月説戒は大小律家の通制にして而も戒を養う所以の法なり。特に梵網を専らにする者は、乃ち在家に至るまで務めずんばあるべからざるなり。然るに澆季は薄俗にして僧尚ほ戒を受持せざる輩有り。亦た...『浄宗半月布薩式畧法』参究(1)
最近、『亀鏡文』を学ぶ機会を得ようと思い、改めて『禅苑清規』本文を学んでみた。爾れより叢林の設け、これを要するに本、衆僧の為なり。是を以て衆僧に開示す、故に長老有り。衆僧に表儀す、故に首座有り。衆僧を荷負す、故に監院有り。衆僧を調和す、故に維那有り。衆僧を供養す、故に典座有り。衆僧の為に作務す、故に直歳有り。衆僧の為に出納す、故に庫頭有り。衆僧の為に典翰墨を主る、故に書状有り。衆僧の聖教を守護す、故に蔵主有り。衆僧の為に檀越を迎待す、故に知客有り。衆僧の為に召請す、故に侍者有り。衆僧の為に衣鉢を看守す、故に寮主有り。衆僧の為に湯薬を供侍す、故に堂主有り。衆僧の為に洗濯す、故に浴主・水頭有り。衆僧の為に寒を禦ぐ、故に炭頭・炉頭有り。衆僧の為に乞丐す、故に街坊・化主有り。衆僧の為に労を執る、故に園頭・磨頭・荘...『亀鏡文』に学ぶ禅宗叢林諸配役の意義について
と或る会議の関係で、戒名の「位階」について議論したことがあった。そういう中で、他宗派のあり方も検討しているのだが、浄土真宗の場合は位階が付いていない印象である。そこで、その理由などについて示した文献があるようなので、見ておきたい。他門には俗家の法名の下に信士・居士・童子・信女・童女等の称を付す。今家にはこれなきことは、釈の字を冒しむる故なり。生前又は没後にもすべて剃髪せしめ、釈某と法名を授れば、即是仏弟子の僧尼に信士等の称あるべからず。義を転ずれば通ずる義もあるべきかなれども、正しくは俗人の称なり。ことに居士といふは、処士に同じ。必しも仏弟子に局らず。香山居士・六一居士の如し。但し浄名居士の多釈なりと雖も、いまだ僧分の某居士と称せし例をきかず。まさに知べし釈の称は信士等の称と優劣懸隔せることを。玄智上人『...真宗の法名に於ける位階について
浄厳律師覚彦(1639~1702)とは、江戸時代初期から中期にかけて活動した真言宗(真言律宗)の僧侶で、徳川綱吉の帰依を受けて江戸湯島に霊雲寺(真言宗霊雲寺派総本山)を開創したことでも知られる。それで、この人の出身地は、河内国だったのだが、その関係から或る文献に伝記が載っているので見ておきたい。和尚、戒行円満し、道徳一世に高く、至る処に僧俗雲集す。経を講じて法を説き、虚日無し。其れ大元帥明王法を修して、国家鎮護を祷るなり。公侯縉紳妃嬪、皆粛然として崇拝せざること莫し。其の剃度の弟子四百三十六人、菩薩戒を授ける者一万五千余人、結縁灌頂を授ける者実に三十万四千五十五人なり。松尾耕三『河内名流伝(上巻)』明治27年、3丁裏このようにあって、浄厳律師は真言律宗の中興者とも評されるように、まずは自身が戒行円満する人...浄厳律師による授戒について
或る文献を読んでいたら、ちょっとした議論が書かれていた。本国の伝大乗戒、蓋し鑑真和尚を以て始めと為す。釈書〈円澄伝〉に大同元年最澄法師、止観院に於いて衆の為に菩薩戒を授くるを以て其の始めと為すは非なり。近藤瓶城編『史籍集覧〈巻三十)釈門事始考』近藤活版所・明治26年、25頁、見易く改めるまず、上記の内容について確認していきたい。要するに、本書では、日本で菩薩戒(大乗戒)を授けられたのは、鑑真和上であって、最澄法師ではないという話をしているのである。それで、この最澄法師の件については、『釈書〈円澄伝〉』に出ているという。大同元年十一月二十三日、伝教、止観院薬師像前に於いて、数百人を率いて、円頓菩薩大戒を授く。澄も又、預かる。是れ伝大戒の始めなり。『元亨釈書』巻2「釈円澄」項これを見ると、確かに『史籍集覧』で...日本国内に於ける大乗戒の濫觴について
或る一節を見ていきたい。維摩詰曰く、我が病形無く見るべからず、と。又た問う、此の病、身合なるや、心合なるや。曰く、身合に非ず、身相離れるが故に。亦た心合に非ず、心の幻の如くなるが故に。師云く、身相既に離るる、心も亦た幻の如し。誰か是れ疾を示す者なるや。誰か是れ疾を問う者なるや。還かに証明して得んや。若し証明し得れば、則ち諸人の身病・心病、倶に銷み、仏病・法病、斉しく遣れば、便ち能く、三毒を回して三聚浄戒と為し、六識を回して六神通と為し、煩悩を回して菩提と為し、無明を回して大智と為す。『大慧録』巻7これは、中国臨済宗の大慧宗杲禅師(1089~1163)の教えである。この教えは、元々『維摩経』巻中「文殊師利問疾品第五」からの引用である。文字通り、維摩居士と文殊菩薩との問答になるのだが、結局維摩の病とは、体から...或る禅僧の語録に見える「三聚浄戒」
今日7月18日は、「海の日」である。とはいえ、ここ数日、新型コロナの新規感染確認者数が大幅に増えているので、政府は行動を制限しないとしているけれども、自粛しておきたい気もする・・・ということで、「海の日」なのだが、この日は「海」に因んだ仏教語を学ぶようにしている。今日、見ていくのは「清浄大海衆」という言葉である。これなのだが、例えば以下のような用例がある。雲堂の清浄大海衆なり。『虎穴録』巻上これは、臨済宗の大徳寺や妙心寺などで住持を務めた悟渓宗頓禅師(1416~1500)の語録に出てくる表現である。雲堂とは僧堂(坐禅堂)のことなので、そこに坐する大衆のことを「清浄大海衆」と表現したことが理解出来よう。ところが、実はこの語は本来、禅宗系で用いる表現ではないようなのである。そう書くと、いや、以下の一節があるだ...「海の日」に学ぶ仏教
今日は7月15日である。7月・8月の違いはあるにせよ、今日は盂蘭盆会(お盆)の正当として扱われる地域もある(参考までに、当方は8月)。それで、何故、今日なのか?といえば、盂蘭盆会の典拠となる『盂蘭盆経』で、以下のようにされることと関わる。仏、目連に告げ、十方の衆僧、七月十五日に於いて僧の自恣の時、当に七世の父母及び現在父母、厄難中の者の為に、具飯、百味・五果、汲潅盆器、香油・錠燭、床敷臥具し、尽世の甘美、盆中に著くるを以て、十方の大徳衆僧を供養す。〈中略〉清浄戒を具うる聖衆の道、其の徳汪洋なり。其れ此等の自恣僧を供養すること有れば、現在の父母、七世の父母、六種の親属、三途の苦を出づることを得て、応時に解脱し、衣食自然たり。『盂蘭盆経』、訓読は当方問題はこの「自恣僧」という字句なのだが、上記一節ではその「自...自恣と供養について(盂蘭盆会に因んだ学び・令和4年度版6)
ということで、【昨日の記事】で採り上げた『潅臘経』について、本文を読んでみたいと思う。それで、『大正蔵』巻12に収録されているのは、『般泥洹後潅臘経』という名前で、「西晋月氏国三蔵竺法護訳」という訳者の名前が見える。是の如く聞けり、一時、仏、在舎衛国祇樹給孤独園に在りて、摩訶比丘僧と、諸天人民と共に会して、坐して経を説く。阿難、前して長跪叉手して仏に白して言わく、天中の天、問う所有りと欲す、願わくは仏、之を説け。若し仏、般泥洹の後、四輩の弟子、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、四月八日・七月十五日に潅臘す、当に何を用いるべき所ぞ」。仏、阿難に語りて、仏を潅臘する者、是の福願、人の度する者、各おの自ら銭宝を減じ、珍愛を割取し、用って度世の福を求むれば、当に寺に然灯、焼香、用って経像を作ることを給るべし。若しくは...盂蘭盆会に因んだ学び(令和4年度版5)
「盂蘭盆会」であるが、偽経と考えられてはいるものの、しっかり典拠となる経典『仏説盂蘭盆経』が存在している。たいがいは、同経典に依拠しつつ、各宗派での「盂蘭盆会」は構築されているのである。ところが、中国での研究成果を見てみると、盂蘭盆会を示す経典は複数存在しているのである。仏説盂蘭盆経此の経、総じて三訳有り。一には、晋の武帝の時、刹法師の翻じて、云わく盂蘭盆経なり。二には、恵帝の時、法炬法師の訳、云わく潅臘経なり。応に此の文に、「飯・百味・五果を具え盆器・香油・錠燭等を汲潅す」と云うが故に。三には、旧本別録す、又た一師の翻有り、報恩経と為す。圭峰宗密『仏説盂蘭盆経疏』巻下ということで、以上の一節は何を表現しているかといえば、盂蘭盆会の典拠となる経典として、3種類が知られているということなのである。そこで、上...盂蘭盆会に因んだ学び(令和4年度版4)
日本では一部地域で盂蘭盆会になったので、『盂蘭盆経』を勉強してみようと思ったのだが、その過程で面白い経典を見出した。特に、中国の大蔵経の目録である『開元釈教録』を見てみたところ、以下の一節があったのである。報恩奉盆経一巻〈盂蘭盆経と同本なり〉『開元釈教録』巻3ということで、『報恩奉盆経』というのがあるそうだ。確かに題名だけを見れば、「報恩に盆を奉る経」とあるから、「盆」に食事を載せて施食するような印象であろうか?それで更に調べてみたら、『大正蔵』巻16に入っていて、現代であれば容易に本文が見られるので、読んでみたわけである。この『仏説報恩奉盆経』については、「亦た報像功徳経と云う」とも併記されているのだが、『盂蘭盆経』ではないのか?それから、『大正蔵』には「報像功徳経」という名前の経典は入っていないような...盂蘭盆会に因んだ学び(令和4年度版3)
とりあえず国内の一部地域が盂蘭盆会期間中ということで、以下の記事をご覧いただきたい。○盂蘭盆会第七十一漢土にては梁武帝大同四年〈我紀元一千百九十八年〉初めて盂蘭盆斎を設けたるよし仏祖統記に見ゆ。大内青巒居士『釈門事物紀原』鴻盟社・1883年、下巻18丁表これは、明治時代の仏教啓蒙家である大内青巒居士が、仏教に因む様々な事物について解説を記した文献からの引用である。今回引用した項目は見ての通り、「盂蘭盆会」についてであり、青巒居士は『仏祖統紀』という文献から引用して、中国で最初に行われた盂蘭盆斎は、中国南北朝時代の梁・武帝が大同4年(538)に行ったものであるという。日本ではようやく仏教が伝来した頃に、中国では国家を挙げての大規模な法要が行われていたわけである。(大同)四年、帝、同泰寺に幸し、盂蘭盆斎〈梵語...盂蘭盆会に因んだ学び(令和4年度版2)
納豆といえば、高機能大豆加工食品として人気がある。ところで、今日は7月10日、この日付の語呂合わせで「納豆の日」とされている。この納豆には、確かに「精進料理」のイメージがあるが、仏教寺院とも関係があったようである。納豆〈釈名〉納の字、未だ詳らかならず。或いは謂う、僧家の庖厨を納所と号す。納豆は、近代、僧家多く造る故に、此の豆、僧家納所に出るを之に名づく。此も未だ的当と為さず。丹岳野必大千里『本朝食鑑』巻2「納豆」項、訓読は当方この著作は、江戸時代前期の人見必大(1642?~1701)によって編集された文献である。そこで、「納豆」という用語について、以上のような説を紹介しているのだが、ここから、仏教寺院との関係があると指摘されている。この記事では、この内容の検証を行ってみたいと思うが、人見自身、「此も未だ的...納豆と仏教寺院について
当方で、蝉が初鳴きした。今季初である。よって、その蝉に因んで、この記事を書いておきたい。蝉蛻上は時に延・反なり、下音は税・説なり、文は蝉・虵の退皮するところなり、並びに虫に従い、単兊の声に従うなり。『一切経音義』巻76この意味は、「セミの抜け殻」のことである。実は、この文字が仏典に登場しており、その音と意義を示したのが、上記の一節なのである。なお、「蝉」はセミで、「蛻」が抜け殻のことである。そうなると、「蛇(虵)の抜け殻」などにも使えそうだが、実際に「蛇蛻」という語句も、仏典に出ている。ところで、この「セミの抜け殻」であるが、一体、どういう文脈で使われるのだろうか?同願の有る者は、但だ導師を瞻て、脱然なること蝉蛻のごとく、五濁の泥を出づ。『楽邦文類』巻2「李伯時画弥陀讃寂音禅師恵洪」これは、穢土たるこの世...仏典に於ける蝉に関するお話し
今日七月七日は七夕である。当方が生まれ育った地域は、月遅れの七夕で8月7日に行われていたが、とりあえず今日に記事を書いておきたい。それで、七夕に関する興味深い一節を見付けた。◎七月和名をふ月といふは、たなばたに文をかすとて、ひらくゆへにふみ月とも、文ひろげ月とも云。享保20年版『江府年行事』、三田村鳶魚先生編『江戸年中行事』中公文庫・47頁「ふ月」とあるが「文月(ふづき)」のことである。そして、その由来が「七夕」にあるとしているのである。七夕で短冊に願いを込めるというのは、かなり重要なことだと思われていたのだろうか。上記に引用した同じ文献では、以下の一節も提示している。○本朝にては孝謙天皇天平勝宝七年に乞巧奠はじまる、此日童子小女のわざに、五色の紙を色紙たんざくにたち、歌を書て若竹の笹にむすび、高くさゝげ...7月7日七夕の節句
今日、7月6日は「南無の日」である・・・と断定しているのが何人くらいいるかは知らないが、当方は確信を持って、そう断言している。まぁ、根拠はただの語呂合わせ、ではあるが。そこで、今日は「南無」に因む教えを幾つか見ておきたい。三世の仏は皆凡夫にてをはせし時、命を法華経にまいらせて仏になり給ふ。此の故に一切の仏の始めは南無と申す。南無と申すは月氏の語、此土にては帰命と申すなり。帰命と申すは天台釈して云く、命を以て自ら帰す等云云。命を法華経にまいらせて仏にはならせ給ふ。日蓮聖人『御書』断簡これは、日蓮聖人による教えである。「断簡」とある通り、全文が残っているわけでは無いので、まずは上記一節をそのまま拝受しておきたい。内容としては、三世諸仏は、命を『妙法蓮華経』に詣らせて、仏になったという。では、その方法は?という...7月6日南無の日
今日7月5日は、旧暦であれば日本に禅宗(具体的には臨済宗黄龍派)を伝えた明庵栄西禅師(1141~1215)の忌日の日付であるという。なお、栄西禅師は時代的には重なるのだが、『鎌倉殿の13人』にも出てくるのかな?さておき、その御遷化の御様子についての具体的な記載は、以下のように見ておきたい。(建保3年[1215])夏に微疾を示す。六月晦の布薩の次で、衆に告げて曰わく、孟秋の単五、吾の終なり。都下、喧伝して宸扆に至る。期に到り、上、中使を遣わして問候す。西、宮使に対して曰わく、已に近し。而も姿儀、壮健なり。諸弟子、傍聴して僭かに怕づ。晡時、椅に坐りて安祥にして逝す。中使、未だ宮に還らざるに、路人の譁称を塗聞し、瑞虹の寺上なるを見る。実に七月五日なり。年七十五、臘六十三なり。『元亨釈書』巻2「伝智一之二・建仁寺...7月5日栄西禅師忌
気になる一節があったので、見ておきたい。伝教大師、像法の末に御出世あり。叡山に円頓戒壇を立て、法華・梵網の大乗戒を弘め玉へり。是専ら末法の為也。具に顕戒論等を見べし。何ぞ末法なればとて、妄りに戒律をそしらんや。『真迢上人法語』真迢上人(1596~1659)であるが、江戸時代初期の天台真盛宗の僧侶である。元々は日蓮宗であったが、後に同宗に転宗した。天台真盛宗とは、念戒一致を主張して、持戒しながら往生を目指すという教義となっている。よって、その教義からすれば、戒律・持戒の特長を主張するのは当然ではある。そのため、以上のような評価があるといえる。ここでいわれているのは、伝教大師最澄の讃歎である。上記では、伝教大師は像法時代の末期に、この世で活躍されたという。比叡山に「円頓戒壇(一般的には大乗戒壇)」を建てられた...円頓戒は末法の法?
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。斫樹取果喩昔、国王有り、一つの好樹の高広極大なる有り、当に勝果を生じて、香、而も甜美たるべし。時に一人有りて王の所に来至す、王、之に語りて言わく、「此の樹上、将に美果を生ず、汝、能く食するや不や」。即ち王に答えて言わく、「此の樹、高広にして、之を食せんと欲すると雖も、何に由りてか能く得んや」。即便ち樹を断ちて望んで其の果を得る、既に獲る所無し、徒らに自ら労苦して、後に還た竪んと欲すれども、樹、已に枯死して都て生理無し。世間の人、亦復た是の如し。如来法王、持戒有るは、樹、能く勝果を生ず。心に願楽生じて果を食することを得んと欲すれども、応当に持戒して諸もろの功徳を修すべし。方便を解せざれば、返りて其の禁を毀し、彼の如く樹を伐れば、復た還活することを欲すれども都て得べか...持戒と樹の伐採の譬えについて
今日は7月1日である。かつての旧暦であれば、今日から秋であった。現代の新暦では、まだまだこれからが夏本番とはいえるのだが、とりあえずかつての禅僧の説法を見ていくことで、七月旦の上堂。一二三四五六七、眼裏の瞳人篳篥を吹く。七六五四三二一、石人・木人の眼涙出す。七通八達挙著すれば、便ち知る尚お見聞の隔靴掻痒在り。陝府の鉄牛、嘉州の大像を呑めば則ち且く置く。仏前の階前、狗、天に尿す。五台山上、雲、飯を蒸す。一句、作麼生か道わん。風来たりて樹影動き、葉落ちれば便ち秋を知る。『圜悟録』巻7これは、かの『碧巌録』を著した圜悟克勤禅師の上堂語である。内容を読み解きながら、考えてみたいと思う。まず、冒頭で、「一→七」と「七→一」の語句が出ている。これは、数字の増減をもって、仏法の働くさまを示しているといえるが、問題はその...今日は7月1日なので秋の説法でも
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アフリカ出身の夫と国際結婚し、その生活の中で体験したり学んだり考えたりしています
「純粋な」哲学の話題であれば、何でもどうぞ。 宗教、スピリチュアル、ポエム、政治、社会問題は却下です。 科学哲学は認めます。 なお、オープンな議論を促進するため、コメント機能を有効にすることが望ましいです。
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自分を変えようとして苦しんでいる人は多くいます。実は自分を変えようとしていることが間違いなんです。そもそもそのそのままの自分で幸せに暮らすことができます。それができるならみんなそのままの自分で暮らしたいと思っていると思います。そんなそのままの自分で幸せに暮らすためのヒントを発信します。
「奇跡」を司るのが「神」 時間・空間・物質に「奇跡」が起きた。 生命は「奇跡」の連続 「大いなる意思」は「神の愛」 人間は皆、「神の子」です。