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ハロウィンといえば、東京の渋谷駅周辺での仮装した人々のどんちゃん騒ぎが例年報じられるところであるが、昨年は新型コロナウィルス感染症のこともあり、かなり抑えた印象であった。今年も、同感染症の影響は残るが、ここに来て日本国内の新規感染確認者数は激減しているので、いてもたってもいられずに騒ぎ立てる人がいるのかもしれない。それで、今日は、我々が正しく理解していないかもしれないハロウィンの遊びについて採り上げてみたい。ハロウイーン夜会でよくやる遊戯は、大きな林檎を盥に水に浮かして手を用ひないで林檎を食べた者は、幸福が来るとか、二口食べると自分の思ふ人と結婚が出来るとかと笑ひ興ずる様のこと。夫れから林檎を天井から糸でつるして同様の遊びもする。火中に胡桃を投じ、其の胡桃が漸々燃いて灰になれば、其の人は幸福、胡桃は跳ねて外に飛...ハロウィンの遊びについて
3回目となる連載記事だが、義浄(635~713)による『南海寄帰伝』19番目の項目に「受戒軌則」があり、最近の拙ブログの傾向から、この辺は一度学んでみたいと思っていた。なお、典拠は当方の手元にある江戸時代の版本(皇都書林文昌堂蔵版・永田調兵衛、全4巻・全2冊)を基本に、更に『大正蔵』巻54所収本を参照し、訓読しながら検討してみたい。前回は、出家者(沙弥)にしていく受戒作法などを論じたが、今回はその続きである。威儀節度、請教白事、進具の者と、体に二准無し。但だ律蔵に於いて十二犯すこと無し。其の正学女は片に差降有り。十二とは何ぞや。一には衣を分別せざる、二には衣を離れて宿す、三つには火に触る、四には食を足る、五には生種を害す、六には青草の上に不浄を棄つ、七には輒く高樹に上る、八には宝に触る、九には残宿の食を食す、十...律蔵十二無犯(義浄『南海寄帰伝』巻3「十九受戒軌則」の参究・3)
前回の記事までは、「篤胤の天竺論」を論じたのだが、今回らは「篤胤の釈迦族論」と題して、釈迦族についての見解を見ておきたいと思う。篤胤は、仏教の開祖である釈迦牟尼仏について、その一族の様子を明らかにすることで、何かの瑕疵を見つけ出そうとしているようである。さて釈迦の姓に五つのわけがある、一つには瞿曇氏と云、二つには甘蔗氏と云、三つには日種氏と云、四つに舎夷氏といふ、五つには釈迦氏といふ。悉くこれにはわけがあるけれども、余りくだくだしいによつて是はおきませうが、其中甘蔗氏と云わけは〈以下略〉『平田先生講説出定笑語(外三篇)』17頁、漢字を現在通用のものに改めるこの最初の「釈迦」は、「釈迦法師」のことを指している。そして、その姓に5種類があったとしているのだが、この挙げ方の典拠を探ってみたい。例えば、『仏祖統紀』巻1...篤胤の釈迦族論(拝啓平田篤胤先生9)
連載は22回目となる。『養老律令』に収録されている『僧尼令』の本文を見ているが、『僧尼令』は全27条あって、1条ごとに見ていくこととした。まずは、訓読文を挙げて、その後に当方による解説を付してみたい。なお、『令義解』の江戸期版本(塙保己一校訂本・寛政12年[1800]刊行、全10巻で『僧尼令』は巻2に所収)も参照していきたい。凡そ私度すること有らん、及び冒名して相い代わらん、并びに已に判して還俗をされて、仍りて法服を被たらば、律に依りて科断せよ。三綱及び同房の人、情を知れる者は各おの還俗せしめよ。同房に非ずと雖も、情を知れる容し止め一宿以上を経れば、皆な百日苦使せよ、即ち僧尼、情を知て浮逃の人を居き止めて、一宿以上を経たらば、亦た百日苦使せよ。本罪重くは、律に依りて論ぜよ。『令義解』13丁表~裏を参照、原漢文、...第二十二条・私度条(『僧尼令』を学ぶ・22)
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載27回目である。2〔27〕お金が箱の中に投げ入れられ、そのお金がチャリンと音を立てるや否や、魂が飛び立つ〔とともに煉獄を去る〕と教える人たちは、〔神の教えではなく〕人間的な教えを宣べ伝えている。深井氏下掲同著・21頁見てみると、この次の「3〔28〕」も、やはりお金と救いに関する話になっているのだが、当方、この連載を始める前から、上記の一節に関わる内容があったことは知っていた。要するに、魂の救済を、金銭の喜捨に直結させる考えを述べた人たちを、ルターが批判していたというのを、以前に見たことがあったのである。もちろん、宗教を組織として運営するのであれば、金銭的収入を得た方が良いには決まっている。とは...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・27
伝説上、中国に初めて到来した経典は『四十二章経』とされる。そして、この経典については、以下の評価が見られる。四十二章経とは、蓋し能仁の訓戒の辞なり。騰蘭の伝訳してより、即ち華夏に通行するを以て、朕、嘗て余閑を以て潜に閲覧を加う。宋真宗皇帝製『註四十二章経』「序」上記の通り、『四十二章経』とは、「能仁の訓戒の辞」とある通り、戒律に関する説示が多く見られ、おそらくは出家者の作法としての役割を果たしたものと思われる。そこで、当方で勝手に注目した「章」を見ておきたい。仏言わく、「親を辞して出家を道と為すを、名づけて沙門と曰う。常に二百五十戒を行じ、四真道行を為し、志を清浄に進んで、阿羅漢と成る。阿羅漢とは、能く飛行変化し、寿命に住し、天地を動かし、阿那含の次と為る。阿那含とは、寿終わりて魂霊、十九天に上り、於彼れ阿羅漢...出家者の作法としての『四十二章経』(1)
色々と読んでいたのだが、当方が承知していた授戒会に比べると懺悔法が非常に曖昧である印象を得た。いやまぁ、転ずれば、当方が知っていた懺悔法は過剰である印象も得る。そこで、浄土宗の作法などを見てみた。すると、椎尾弁匡先生の『授戒講話』(弘道閣・昭和6年)に収録される「授戒会前行差定」「正授戒会差定」を見てみると、両方とも「広懺悔」という項目名が見える。具体的には以下の通りである。我昔より造る所の諸の悪業は、皆無始の貪瞋癡に由る、身語意より生ずる所、一切我れ今皆懺悔す。私共が昔より造れる多くの罪は皆この三毒煩悩から出たものである。それは身か口か心かによつてやつたことである、一切私は今すべてを懺悔しますと云ふことであります。前掲同著、52~53頁つまり、「広懺悔」と書いてあるのは、「別懺悔」に対応する表現であり、三業に...浄土宗・授戒会の懺悔法について
まずは、以下の一節から学んでみたい。是の如くの種種の因縁、出家の利、功徳無量なり。是を以ての故に、白衣、五戒有りと雖も、出家に如かず。是の出家律儀に四種有り、沙弥・沙弥尼・式叉摩那・比丘尼・比丘なり。龍樹尊者『大智度論』巻13「釈初品中讃尸羅波羅蜜義第二十三」ということで、これは龍樹尊者『大智度論』の見解で、いわゆる「出家功徳」を説いた箇所(それはそれで別の記事にしておきたい)ではあるのだが、合わせて、「出家律儀」の四種を示したところでもある。ところで、良く見てみると、本文では、「四種」といっているのに、挙げられているのは「沙弥」から「比丘」までの五種となっている。そこで、この件については、沙弥・沙弥尼について、受ける戒がともに「沙弥十戒」であることに起因し、「式叉摩那」は「六法」を特別に受けるし、比丘尼と比丘...『大智度論』における出家律儀の種類について
「律蔵」を見てみると、具足戒を受けて比丘になるための条件が明示されている。これは、いざ具足戒を受けると、出家となって、僧団に留まり修行することとなるためである。もし、本人が望まない状態、或いは、良く分かっていない状態で出家しても、トラブルばかりが起こるため、予め、具足戒を受ける条件を定めたのである。爾の時、眠人に受具足戒を与えること有り。覚め已りて家に還る。諸もろの比丘言わく、「止まれ、家に還ること莫れ、汝、已に具足戒を受く」。彼れ答えて言く、「我れ具足戒を受けず」。諸もろの比丘、往いて仏に白す。仏言わく、「眠者に具足戒を授けることを得ざれ」。爾の時、酔者に受具足戒を与えること有り、酒、解け已りて即ち家に還る。諸もろの比丘言わく、「汝、已に具足戒を受く、止まりて家に還ること莫れ」。答えて言わく、「我、具足戒を受...『四分律』に於ける具足戒を受ける条件について
以前から、画像でネット公開されていた著作権の切れた版本の画像データは持っていたのだが、版本の実物(延宝7年版の後刷で明治期のもの)も手に入れたので、無住道曉禅師(1227~1312、開山の名古屋市長母寺は臨済宗東福寺派になっており、無住自身も円爾を禅法の師とするが、本人の宗派は正直申し上げて確定し難い)の晩年の著作である『雑談集』から「持律坐禅之事」章について記事にしてみようと思った。坐禅については色々と見たことがあったが、持律はまだ採り上げたことがなかったので、見ておきたい。○日域は小国なり、人の心麁強にして、持律坐禅の器量、上古よりまれなりけり、大権の垂迹上宮聖霊、伽藍を立て、僧尼を度し玉ひしかども、五戒の分なりけり、わづかに経論を学し、時至りて大唐の龍興寺の鑑真和尚渡りたまひて、観世音寺・東大寺・薬師寺、...無住道曉禅師『雑談集』に見る持律について
少し、興味深い文脈を見出したので、内容を読み解いてみたい。善男子、戒の非波羅蜜有り、波羅蜜の非戒有り、戒有り波羅蜜有り、非禁戒・非波羅蜜有り。是れ戒の非波羅蜜は、いわゆる声聞・辟支仏戒なり。是れ波羅蜜の是の戒に非ざるは、いわゆる檀波羅蜜なり。是れ戒・是れ波羅蜜なるは、昔、菩薩の瞿陀身を受ける時が如し、諸虫獸及び諸蟻子の唼食する所、身を傾動せず、悪心を生ぜず、亦た仙人の衆生と為るが如くの故に、十二年中青雀の頂なる処も、起たず動ぜず。非戒・非波羅蜜なるは、世俗の施の如し。『優婆塞戒経』巻6「尸波羅蜜品第二十三」大乗仏教に於ける「戒波羅蜜(尸羅波羅蜜)」があるけれども、その「戒」と「波羅蜜」との関係を論じたのが、上記の一節である。それはつまり、以下の4つとなる。戒であり波羅蜜ではない。波羅蜜であり戒ではない。戒であり...戒と波羅蜜の関係について
備忘録というか、個人的な学びを少し記事にアレンジしてみた。律を見ていると、「依止師」という存在が出てくるのだが、一見して、弟子を導く師匠の一人だと思われる。参考までに日本の江戸時代には、以下のような解釈がされたこともあった。忠曰く、諸方の名徳の座下に依随住止して、仰いで受学参禅の師と為す者、是を依止師と名づく〈又は、受業師の処を見よ〉。五分律に云く、仏言く、五種の阿闍梨有り。始めて沙弥戒を度受す、是れを出家阿闍梨と名づく。具足戒を授くるの時、威儀法を教う。是れを教授阿闍梨と名づく。具足戒を授くるの時、為も羯磨を作す。是れを羯磨阿闍梨と名づく。就いて経を授け乃至、一日誦す。是れを授経阿闍梨と名づく。乃至、依止して一宿を住す、是れを依止阿闍梨と名づく。「依止師」項、無著道忠禅師『禅林象器箋』巻6「第六類・称呼門」以...依止師について
以前、安藤正純師編輯『仏教事物問答五百題(全)』(国母社・明治31年)を入手してから、少しずつ読んでいた。なお、編輯者である安藤師の肩書きを見ると、「国母社編輯員」とはあるものの、残念ながら詳細は良く分からない。ただし、本書の特に、儀礼に関する部分では、一般的な宗派と浄土真宗とに分けて論じるため、浄土真宗には特段の配慮、或いは研究がなされていたか、或いは同宗派に関係がある人だった、という推測は出来よう。ただし、本書凡例を見ると、特定の宗派には依拠しないとも明言されている。そこで、今日は本書に見える葬式仏教批判を確認してみたいと思う。(四二一)問、現時各宗僧侶は葬式を以て欠く可らざる本行となすものに似たり、果して仏説に此の制あるか答、否、善見律資持記等に依るに、僧の在家の葬事に関するは戒律の厳しく禁ずるところなり...明治時代の葬式仏教批判論(1)
『四分律』という仏教の戒律を示した文献で、冒頭には偈頌が収録されているが、この偈頌は本来の『四分律』本文ではない。それは、以下の一節でも知られるところである。此の偈は是れ迦葉千衆の集律に非ず、時人の造る所なり。乃ち是の後の五部の分張、各おの伝える所に拠る。即ち是の一衆の首に居く者、将に衆の為に律相を弁釈すると欲するが故に、先ず偈讃じて然る後に之を説く。以上の通りで、『四分律』冒頭の偈頌は、摩訶迦葉尊者による仏典結集時に編入されたものではなく、後に『四分律』を用いている法蔵部の誰かが、大衆のために律の内容を「弁釈」するために詠まれたものだと評している。さて、その偈頌の中に、「十句偈」という一節が見えるので、それを読んでおきたい。今十句義を説く、諸仏の戒法は、僧をして喜び永く安からしむ、僧を摂取するが故に。信ぜざる...『四分律』冒頭の偈頌に見える「十句偈」について
以前、個人的に「善根上受具」という言葉に注目したことがあったのだが、その典拠になる『毘尼母経』を読んでみると、元々は「上受具」という概念があり、その細目の1つが「善根上受具」であることが分かる。つまり、善根を行う者が「上受具」であると言っているのだが、「上受具」自体が少し分かりにくい。上受具とは、諸有漏を尽くして阿羅漢と成る。上沙弥の如きは、未だ二十に満たざれども、阿羅漢を得るが故に、名づけて上受具と為す。此れ比丘尼、亦復た是の如くなれば、是れを上受具と名づく。比丘尼、五種の受具し竟んぬ。『毘尼母経』巻1つまり、「上受具」というのは、上質なる状況で具足戒を得たという意味であり、この場合は諸々の有漏(煩悩)を尽くして阿羅漢になることをいう。そのため、煩悩を尽くした者であれば、上受具となるため、例えばまだ二十歳にな...「上受具」について
今日、10月10日は、様々な記念日が重なっているらしいのだが、以前は「体育の日」でもあった。しかし、その日は東京五輪2020開催に因んで「スポーツの日」と改まり、しかも、今年は7月の東京五輪開催に使ってしまったので、終了済み。そうなると、他に使えそうな日は?ということで、見てみると「目の愛護デー」がある。一一〇〇このように、10・10を巧く並べ直すと、人の目の周辺に似ている、というのが決めた理由であるとされるが、経緯については以下のサイトをご覧いただくと良いと思う。・10月10日は目の愛護デー(参天製薬)ということで、「目の愛護デー」に因んで、何らかの記事を書きたいと思っているのだが、「目」について、例えば漢語の仏典だとこれを「眼睛」と表記する。要するに、我々の黒目(もちろん、黒でなくても良い。当方も、厳密な意...今日は「目の愛護デー」(令和3年度版)
仏教が行う臨終行儀には、色々なことがあるけれども、やはり仏祖が行ったことを1つの事例として、後代の法孫たる我々は実施すべきなのだろう。以前から個人的にはこの辺に興味があったのだが、釈尊は臨終を迎えようとしている出家者に対して、法を説いたことも知られている。状況としては、出家して間もなかった見習い僧(かなり若いと思う)が、重い病気にかかってしまったので、他の比丘が看病していたらしい。しかし、いよいよ重篤になったのか、その比丘は釈尊に対し、病比丘に慈悲を垂れて、導いてくれるように頼んだ。釈尊はその願いを聞き入れて、病に苦しむ年少僧の下に行った。そして、その病の年少僧は、自分がまだ若く、このまま死んでしまうのは、大きな後悔があると釈尊に申し開いたのである。そして、釈尊は戒律でも犯したのか?と尋ねられたが、病比丘はそう...釈尊による病比丘への臨終説法
色々と調べていたら、以下の一節に行き当たった。四戒とは、一つには舎那戒、二つには釈迦戒、三つには菩薩戒、四つには衆生戒なり。舎那を本と為し、伝授の釈迦を迹と為す。釈迦、此れを復た諸菩薩に授くることを得て、諸菩薩、此の戒を復た凡夫衆生に伝授することを得るなり。『菩薩戒義疏』巻上当方的に意味が分からなかったのは、「舎那戒」である。他は大体意味が分かるのに、この語だけは良く分からない。しかし、解読するヒントはある。それは、上記引用文後半の「舎那を本と為し、伝授の釈迦を迹と為す。釈迦、此れを復た諸菩薩に授くることを得て、諸菩薩、此の戒を復た凡夫衆生に伝授することを得るなり」とあることで、「舎那戒」というのは、「釈迦戒」よりも本源的であることを意味している。それから、この文献が、いわゆる『梵網経』を註釈していることを思う...「四戒」って何?
『漢光類聚』という文献は、一般的には天台本覚思想関係の文献だと思われていると思うが、そのために、一応作者として忠尋(1065~1138)の名前が出ては来るのだが、実際には仮託であろうとされている。それで、天台本覚思想というのは、我々には仏性(如来蔵)が本より具わる(本覚)状態だとされることが第一だが、本来は、そこに修行が加わることにより、仏性を見聞して成仏に近づくという考え方であった。ところが、仏性が具わっている自然なままを肯定し、修行を経ることなく衆生は本より成仏しているという考えに至った。そして、『漢光類聚』はその思想の影響下にある文献であるとされる。今日はその一節を見ていくことで、天台本覚思想下に於ける戒思想を見ておきたい。信解堅固の後、起こる所の諸心、皆な諸波羅蜜と相応するが故に、常に一心三観の義を以て...『漢光類聚』巻2に於ける円頓戒論
今日10月5日は、中国に禅宗を伝えた菩提達磨大和尚の忌日であるとされる。例えば、以下の文脈はどうか。天平三年〈丙辰〉旧本の伝灯に云く、十月五日に達磨卒す。十二月に洛陽の熊耳山に葬る。『景徳伝灯録』巻1「西来年表」このようにあって、天平3年(536)10月5日に、達磨大師が遷化されたとする。もちろん、達磨大師が実在か否かというのは問題ではあるが、少なくとも禅宗の灯史では、以上のように示され、実在などは疑われずに、この日に達磨忌を行った例も増えていくわけである。とはいえ、それが実際に行われるのは、中国なら宋朝禅以降、日本は元々宋朝禅の導入となるので、鎌倉時代には実施例がある。おそらくは、灯史で遷化した日付が理解され、そこで、忌日に供養を行うようになったのではないかとも思うが、その辺はそれとして研究すべきか、或いは先...10月5日達磨忌(令和3年度版)
そういえば、出家者を指す言葉に沙門と桑門とがあることが気になっていた。沙門は「沙門最澄」(『法華秀句』など多数)などかなり一般的に見る表現であるが、桑門はそれほどでもない。少し調べた限り、日蓮聖人が『顕仏未来記』などの一部の文献で、「桑門日蓮」と署名しておられるようだ。それで、沙門と桑門の違いについて、手元でちょっと調べてみたら、以下の結果を得た。沙門と桑門、西国の出家の通号なり。『天台菩薩戒疏』巻中まず、以上の一節から分かるのは、沙門も桑門も、西国(西天、インド)の出家のことだとしており、意味的な違いは無いということなのだろう。しかし、どうも日本の文献を見てみると、沙門は多く、桑門は少ない。この違いの由来を明らかにしなくてはならないだろう。桑門とは、古人の訳経、名づけて桑門と為す。近くに云く、沙門なり。皆な是...沙門と桑門の話
さて、今日から10月である。この日には、禅僧たちが説法をしているので、それを学んでみたい。十月旦の上堂に云く、開炉歳歳に是れ今朝なり。煖気潜かに通り我が曹と称す。惜しむべし丹霞の木仏を焼くことを、翻じて院主をして眉毛を堕さしめんことを。諸禅徳、院主只だ飢え来たらば飯を喫することのみを知りて、且く許多般の事有ることを知らず。丹霞只だ寒ければ即ち火に向かうことのみを知りて、亦た許多般の事有ることを知らず。天童門下、忽ちに箇の漢有りて、恁麼に手を出し、恁麼に性燥たり。也た与に劈脊便ち打す。甚麼と為てか此の如くなるや。当に断ずべきを斷ぜざれば、反って其の乱を招く。『宏智広録』巻4、原漢文残念ながら、具体的な年次までは調べていないが、中国宋朝禅の宏智正覚禅師による旧暦10月1日の上堂である。なお、途中で「天童門下」と出て...今日は十月一日(令和3年度版)
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