聖書に基づくイエス様の救いの証をお語り下さい。短くても結構です。
連載は6回目となる。『養老律令』に収録されている『僧尼令』の本文を見ているが、『僧尼令』は全27条あって、1条ごとに見ていくこととした。まずは、訓読文を挙げて、その後に拙僧なりの解説を付してみたい。なお、釈雲照補注『僧尼令』も参考にすることとしたい。凡そ僧は、近親郷里に、信心の童子を取りて、供侍することを聴せ。年十七に至りなば、各本色に還せ。其れ尼は、婦女の情に願はむ者を取れ。『日本思想大系3』217頁を参照して、訓読は拙僧条文名は、タイトルの通りで、「取童子条」となっていて、一見すると何やら「児童誘拐」的な危険な行為のように思えるかもしれないが、勿論そんな話ではない。要するに、僧侶が自分の身の回りを世話してくれる童子・沙弥などを雇う場合の条件や方法を示したのである。なお、「僧尼令」を補う諸式(式は、律令に対す...第六条・取童子条(『僧尼令』を学ぶ・6)
(アルボムッレ・スマナサーラ著「ブッダの教え1日1話」1/28より引用します) 葬儀に参列して、故人が安らかに天国に行けますようにと祈るとき、死ぬことは自分に関係ない他人事だと思っています。 けれども、「自分もこのように死ぬのだ」と念ずるようにすると、
このカテゴリ「生死について考える」の前稿において、人間以外の動物には、自分に相当するものとして、「ワタシ」というものしか存在していないが、人間の場合には、「わたし」と「ワタシ」という、ふたりの自分が存在している、ということについて、お話し致しました。ちなみに、筆者は、ここで言うところの「ワタシ」を「自己」と呼び、「わたし」を「自我」と呼びならわしておりますので、本稿以降においては、これらの名称を踏...
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載11回目である。11教会法に定める〔この世の〕罰を、煉獄における罰に変えているあの毒麦は、司祭たちが眠ってしまっているあいだに蒔かれたのだろう。深井氏下掲同著・16頁これは、罪ではなくて、「罰」の話であるから、そうなると、「贖宥」に関連する話になるといえる。そこで、L.チヴィスカ氏編『カトリック教会法典羅和対訳』(有斐閣)から、1962年当時のカトリックに於ける「教会法」を見てみると、こんな一節があった。第930条なんぴとも,贖宥を取得して,それを生存中の他の者に恵与することはできない。ただし,ローマ司教によって与えられたすべての贖宥は,別段の定めがないかぎり,練獄に捕われている霊魂のために恵...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・11
家が狭いので、以下のように狭い部屋バージョンで歩くヴィパッサナーを実践している。 (スローモーションで、動きを感じながら、内語で次のように実況中継する。1時間以上やる)右足上げます。運びます。下ろします。左足上げます。運びます。下ろします。右足上げま
ここ1年以上にわたって、最後の一章「雑」を採り上げています。本章は「雑」の字の通りで、他に一章を立てるほどが無い程度の内容でもって、様々な事柄を富永仲基が論じたものです。本当に種々雑多な内容ですが、見ていると20前後の節に分けられそうなので、一つ一つ見ていきたいと思います。中含の福田経に、有学・無学の目、家家の一種及び下向得、皆な各各、階級を異にす。婆沙・倶舎等、皆な之を混ず。亦た諸部の異言、固より怪むにも足らず。然らば是れ同一の小乗、而も其の言、然り。学者、多く是に至りて而も窮す。岩波書店『日本思想大系43』102頁を参照して拙僧が訓読したよくよく読んでみたら、今回採り上げる3節は、それぞれ内容を異としているようなので、別々に見ていきます。そこで、上記の一節ですが、まず『中阿含経』巻30「福田経」の話をしてい...雑第二十五其14(富永仲基『出定後語』を学ぶ41)
真剣さがぜんぜん足りないのは、なにが原因か…… われは、迷いの生存のうちに恐ろしさを見、また迷いの生存のうちにさらに破滅を見て、それ故にわたしは迷いの生存を喜ばない。 (ブッダの感興のことば29章22 中村元訳) この釈尊の教えを、本気で聴けていないか
人は自分の力だけで生きているのではない。それは事実だ。正しい。 しかし、だからといって、それを「大いなるもの(神)に生かされている」と言ってしまっては、もう事実ではない。まったく正しくない。 (My Favorit
(澤木興道 禅の道 1「普勧坐禅の吹唱」より引用させていただきます) 心して引けばこそ鳴れ霧深き秋の山田にかけし鳴子も 引っぱらなければ鳴らぬではないか。一切衆生皆この法性(ほっしょう)真如(しんにょ)の光は誰でも持っているが、引っぱらないから一向ものをな
江戸時代の曹洞宗の学僧である指月慧印禅師が著した『荒田随筆』を学んでいく連載記事である。徐々に各論に入っているけれども、今回は「三乗」と題される一章の5回目となる。彼の月を標すの指、海を截の筏も、豈に夫れ舎なる諸(や)。指、実に指ならば、指、已に指なり。則ち豈に月に非ずや。指を知るは、指、則ち月を茲に見るなり。既に指を見ざる、指外をも取ること莫れ。触目道を会せば、牛に騎りて牛を得たり。若し爾らば、其れ月を見て指を忘ずれば、何の謂ぞ諸(や)。曰く、指を忘ずるは則ち其の月を忘ず。若し月を忘れざれば、繋駒伏鼠なり。故に見者をして両つながら忘じて無何に入らしむ。夫れ指と月とは、道を見るの諭なり。若し指を認じて月を見ること無くば、影を逐うて形を忘ずるなり。指を舎て月を認む。物を離れて己に迷う。皆、自他共等の性を免れず。若...三乗(其の五)(指月慧印禅師『荒田随筆』参究16)
一部の人には良く知られた説話であるが、最近の拙ブログでは僧侶の持戒と破戒について扱うので、その観点からとりあえず、以下の一節を見ておきたい。六十七永超僧都魚食事これも今は昔、南京の永超僧都は、魚なきかぎりは、時・非時もすべて食はざりける人なり。公請つとめて在京の間、久しくなりて、魚を食はでくづほれて下る間、奈島の丈六堂の辺にて、昼破子食ふに、弟子一人近辺の在家にて、魚を乞ひてすすめたりけり。件の魚の主、後には夢に見るやう、恐ろしげなる者ども、その辺の在家をしるしけるに、我家をしるし除きければ、尋ぬるところに、使のいはく、「永超僧都に贄奉る所なり。さてしるし除く」と言ふ。その年、この村の在家、ことごとく疫をして死ぬる者多かり。この魚の主が家ただ一宇、その事を免る。よりて、僧都のもとへ参りむかひて、このよしを申。僧...『宇治拾遺物語』に於ける「永超僧都魚食事」について
鎌倉仏教の浄土真宗・親鸞さんのお考えはこうだ。~身分が高いとか低いとか、金持ちだとか貧乏だとか、 メタボだとかスリムだとか、要するに人間個々の「違い」なんて ものは、阿弥陀如来の存在の大きさに比べたら、ほんとに ちっぽけな誤差に過ぎないのだから、無視でき
だいぶ前になるのだが、【江戸期日本仏教の学問奨励とは何だったのか?】という記事を書いたことがあった。概要を申し上げれば、江戸時代の仏教界には、幕府からの学問奨励があったということになっているが、拙僧なりに調べた限り、該当する幕府の法度条文は良く分からない、という結論が出た、という記事であった。一応、拙僧自身納得が出来なかったので、その後も細々と調べていたのだが、少しく思うところがあったのでそれを記事にしてみたい。参照したのは前回と同じく梅田義彦氏『改訂増補日本宗教制度史』「近世篇」(東宣出版・1972年)である。それで、拙僧はずっと、幕府から出された法度の条文のみを見ていたのだが、梅田氏前掲同著には、各藩から出された法度・掟なども記載されていることに気付いた。何となく見ていたのだが、長門国萩藩の条文に以下の一節...続・江戸期日本仏教の学問奨励とは何だったのか?
昨年度、授戒会に於ける「説戒」について小論を書いた時に、色々と分からないことも出て来た。それで、この記事はあくまでも試論程度だが、拙僧の中の考えをまとめるために書いておきたいと思うものである。取り上げる課題は、タイトルの通りで、宗門授戒会に於ける「説戒」と「完戒(上堂)」の関係についてである。簡単な経緯のみ書いておきたい。まず、現行の宗門授戒会(例えば、七日加行、正授道場の四衆登壇・血脈授与など含む)については、その成立経緯はよく分かっていない。ただ、状況証拠から、加賀大乗寺26世・月舟宗胡禅師が「禅戒会」を興したことがほぼ確実、というくらいである。流石に弟子等が挙って同じように言っているので、月舟禅師が興したのだろう。ところが、悩ましいのは、月舟禅師が行っていた「禅戒会」の詳細が知られないわけである。理由は簡...授戒会に於ける「説戒」と「完戒」の関係について
わたしたちの時代には宗教に本気で情熱を感じ続けることを過去のどの時代よりも困難にしている様々な要因があります。 宗教というものは鼻持ちならぬと思わせるもっともな理由と、それを裏付ける歴史的証拠をそれこそ無数にあげることができるのです。 これは現代人
聖職者の性暴力、被害者の会発足カトリック教会国内信徒ら(共同通信)カトリック教会の聖職者による性被害を訴える国内の信徒らが6月21日、長崎市で集会を開き、被害の掘り起こしや当事者間の連携を目指し「被害者の会」を発足させました。自らの体験を打ち明けた信徒らは「被害者に配慮した社会形成の一歩にしたい」と理解を訴えています。そこで、主催した東京都の竹中勝美さん(63)は、幼少期にドイツ人神父から受けた性的虐待を2018年に実名で公表し、集会では告発の経緯などを説明しました。更に、仙台市の看護師鈴木ハルミさん(67)は、夫の暴力を相談した神父からの性暴力について「真実を話すには苦しくて、おぞましくて、どうしていいか分からなかった」と語るなどしています。難しいのは、少なくともこの被害者の人達が、実際の被害を受けてから時間...日本のカトリック教会聖職者からの性暴力被害者が「被害者の会」を結成
このカテゴリ「生死(しょうじ)について考える」においては、すでに、「いのち」についても語り終えており、「死」についても語り終えており、「神仏」というものについても語り終えております。その結果、いまや、新たな一歩を踏み出す前提となる環境がほぼほぼ整ってきたように思いますので、そろそろ、このカテゴリの本題である「禅」の世界についてのお話を始めてみようかと思います。ということで、本日の主題は、「ふたりの...
今日6月21日は「夏至」である。いうまでもなく、一年の中で昼の時間が最も長い日である。現代はだいたいこの6月下旬くらいに「夏至」になるものだが、かつては5月中旬であった。○夏至は五月の中也、陰気はじめて地にくだる日なり。三田村鳶魚編『江戸年中行事』中公文庫・昭和56年、41頁以上の通りである。「陰気」云々については、いわゆる「陰陽」の考え方に則って、夏の暑い様子を「陽」、冬の寒い様子を「陰」とし、昨年の冬至以降、徐々に「陽」が増えて、その最大が「夏至」になるわけだが、「夏至」を過ぎれば今度は冬至に向かって「陰」が増えていくわけで、その最初の様子を「はじめて地にくだる」と、かつてのカレンダーには書いてあったわけである。それで、この辺の陰陽の動きなどを踏まえて見てみると理解出来る禅問答があるので、見ておきたい。問う...「夏至の日」と禅問答
自分自身が論文を書くとき、色々なものを読むのだが、いざ書くとなると、拙僧自身が理解出来ていなかったり、その文脈が成立した理由が分からなかったりすると、関連部分を全部書かないということがある。これはもう、前からそうなので、自分自身では中途半端だと思うし、多分、本当の意味での研究者ではないからなのだと思う。拙僧自身は、研究者というよりもキュレーターなんだろうと思っている。昨年度も、宗門の授戒会について書いていた時、大本山永平寺40世・大虚喝玄禅師(?~1736)と面山瑞方禅師との関わりについて検討した。ただし、その始終が理解出来なかったので、書けなかった。とはいえ、今後、授戒会に於ける伝戒式挿入の可否を扱いたいと思っているので、その時までには理解したいと思っている。今日の記事も拙僧自身の理解を促すことを目的にしたよ...面山瑞方禅師『傘松日記』に見える禅戒思想(1)
以下の釈尊の言葉は、「なにをあたりまえのことをくどくどと」と思いたくなるほど、《誰でも知ってる事実》です。 この世における人々の命は、定相なく、どれだけ生きられるかわからない。惨ましく、短くて、苦悩に繋がれている。 生まれたものどもは、死を遁れる道がな
ラリー・ローゼンバーグ「呼吸による癒し」読書メモ。 瞑想は上手くいってもいかなくても毎日やる。上手くいく経験と上手くいかない経験が等しく大切だという指摘。 「私」「私のもの」に対する執着は最劣の依存症である。 気づきはハイパーアテンション(HyperAtte
人を生かすみことばの力1362『望みを与える神の恵み』❣️ 11月24日 主日礼拝にて
人を生かすみことばの力1361 穏やかな心は体の命❣️
戦国時代におけるキリシタン信仰普及の真相を探る ~乱世におけるメシア思想の視点から
人を生かすみことばの力1360 主が最後まで堅く保って責められるところがない者にしてくださいます
【ザビエルの遺体に祈り】インドで10年に1度の一般公開 なぜインドに…
人を生かすみことばの力1359 神が望んでおられること❣️
ヴァロアの聖フェリクス証聖者 St. Felix de Valois
聖母マリアの奉献 Praesentatio B. Mariae Virg.
人を生かすみことばの力1358 われらの主イエスによって感謝する幸せ❣️
人を生かすみことばの力1357 神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け❣️
マザーテレサ
人を生かすみことばの力1356 私の助けは主から来る❣️
人を生かすみことばの力1355 疲れた者には力を与え精力のない者には勢いを与えられる❣️
人を生かすみことばの力1354 『安心して生きる』❣️ 11月17日 主日礼拝にて
神は愛なり 聖歌392番「神はひとりごを」
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。其九霊山谷霊山は院の名。寺の西北、一箭道可りに在り。昔、吾が祖、席を弉祖に譲るの後、此の院に歇息して、洛に赴く。院、此の谷に在り、故に名づく。面山瑞方禅師『吉祥草』貝葉書院新鏤本・8丁裏~9丁表、原典に従って訓読は拙僧以上の通りである。この霊山院という寺だが、今も永平寺町内にあり、「永平寺参道IC」から永平寺方面に入っていくと、永平寺の手前2キロくらいで左折したところにある。それで、この一節をどう読むべきかなのだが、まず、道元禅師が懐奘禅師に永平寺の後席を譲った件について、最古の『三大尊行状記』では、「道元禅師章」には書かれていないが「懐奘禅師章」には、以下のようにある。建長五年癸丑七月十四日、即ち住持の位に著く。夜間の小参、早朝の上堂、元和尚、病床なりと雖も、輿に乗り...道元禅師の隠居所の話
みせかけでない本物の智慧とは何か。 釈尊は、純粋な観察こそ本物の智慧だと説いた。 有名な禅語 放下着(ほうげじゃく)(捨ててしまえ)は、あなたが大切に抱きしめているものを捨てよという意味ではなく、実はただありのままをしっかり見よと言っているだけだ。 あな
以前にアップした【鎌倉時代の禅僧達に於ける出家受具への雑考】の一変形のような記事である。要するに、中国で編まれた禅宗灯史文献である『景徳伝灯録』(道原編、1004年に上奏)には、10世紀後半くらいまでの僧侶の伝記が約1,000人分収録されている。その中から、いわゆる「出家受具」の話を見ながら、禅僧(元々禅宗とは限らないが)が受けていた僧侶教育について見ていきたいと思う。即ち洛陽龍門香山に抵して、宝静禅師に依りて出家受具す。「太祖慧可禅師」章後に達磨大師から法を嗣いだとされる中国禅宗二祖・太祖慧可禅師(478~593)の伝記として、宝静禅師という人の下で出家し、具足戒を受けたという。大師深く之を器とし、即ち為に剃髪して云く、是れ吾が宝なり。宜しく僧璨と名づくべし。其の年、三月十八日に光福寺に於いて受具す。同上これ...『景徳伝灯録』に於ける出家受具への雑考(1)
悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。 悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮そう。 (ブッダの真理のことば15・198 中村元訳) 貪(むさぼ)っている人々のあいだにあって、患(うれ)い無く、大いに楽しく生きよう。 貪っている人々のあいだに
テレビの時代劇などには、「厭離穢土・欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)」という、のぼり旗の下に、一揆をおこす庶民の姿が、よく登場致しますが、このフレーズの意味するところは、「われわれが住む、この汚れた世を厭い離れて、清らかなあちら側に、早く渡って行きたいもんだよなあ」という、あたりでしょうか。このカテゴリ「生死について考える」の「信じた者こそ、救われる? 気づいた者こそ、救われる?」シリーズに...
出家受具というのは、出家して、具足戒を受けたことを意味し、いわゆる比丘(沙弥ではなくて)になったことを指す言葉なのだが、日本の場合、奈良時代中期に鑑真和上が来日して構築しようとした東大寺戒壇体制(学術用語でこの辺どう表現しているのか?拙僧の勉強不足で分からない)が、和上入滅後100年くらいで崩壊したとされ、その後はまぁ、当初の状況が中々確立出来ないまま、何となく現代まで来ている印象だ。あれ?話が別の方に行ったが、今日の記事は鎌倉時代の禅僧達の出家・受戒に関する伝承を見ていこうという話である。とはいえ、万事に雑な拙僧なので、とりあえず目についたところだけではある(『続群書類従』第9輯を参照した)。承元元年丁卯師、歳十三にして薙髪、専ら天台大教を以て教え・・・四年庚午師、歳十六、入壇して大僧と為り、密観定慧悉く具足...鎌倉時代の禅僧達に於ける出家受具への雑考
以前から、以下の一節についても参究しなければならないと思っていたが、「身心学道」巻というのは、道元禅師の『正法眼蔵』でも難しい方に入ると思ってしまっていて、大学院の時に、拙僧を指導してくれていた先生が一緒に読んだくれたのだけれども、その時には今一つ理解出来ていなかった感じがする。とはいえ、拙僧自身も本巻を他の人の前で解説したことがあるし、現代語訳的には理解していると思うのだが、宗旨としてどうも腹落ちしていない感じがしているのである。おそらくは、本巻に於ける「身」と「心」の関係性について、拙僧自身が余り上手く理解出来ていないためであると思う。他の巻などとは少し違う説相をしている印象を得てしまっているのである。さておき、その理解に至るための手がかりとして、同巻に於ける戒思想といえば、以下の一節が良く知られている。身...『正法眼蔵』「身心学道」巻における戒思想について
昨日、日曜の朝10時過ぎ起床。前夜、意味なく遅くまで起きていたので目覚ましかけずに寝た。 いつもなら目が覚めるとすぐ尿意があり、まずトイレに行くのだが、今朝はそれがない。 「チャンス!」とおもい、そのままベッドの中でただちに瞑想を試みた。 目覚ましをか
以前、【伝教大師最澄による声聞戒の棄捨について】という記事を書いたことがあるのだが、今回はその続きである。拙僧自身、どうしても伝教大師最澄による「声聞戒の棄捨」が本当に行われたことであるのか納得出来ない部分があるので、それで記事にしたいのである。前回では、『叡山大師伝』を元に考察したのだが、更に色々と調べてみると、同伝が参照した典拠があるようなので、それを評価してみたい。『伝教大師全集』を見てみると、『請立大乗戒表』の「別伝」に、以下のようにある。大師伝文別伝に曰く、自今以後、声聞の利益を受けず、永く小乗の威儀に乖く。即ち自ら誓願して二百五十戒を棄捨し已んぬ。又た告げて言く、南嶽・天台の両大師、昔、霊山に於いて親しく法華經を聞き、兼ねて菩薩三聚戒を受く。師師相授する所以なり。智者、灌頂に授く。灌頂、智威に授く。...伝教大師最澄による声聞戒の棄捨について(2)
ティク・ナット・ハン師が …ピクニックは、目的地に行く道中も楽しい、テント張りも楽しいでしょう、労役だと感じないでしょう。同じように平和、幸福、成功にたどり着く道中の「今ここ」のサティも楽しく行えるのです。 と、法を説いてくれている。 おれは休日など
松本清張原作映画「影の車」は名作だ。テレビでも3回ドラマ化されている。 The Shadow Within 影の車 (1970) - Yoshitaro Nomura Trailer影の車 「影の車」の主人公は、子供時代に、母親の不倫相手を殺している。 大人になって、今度は自分の不倫相手の6歳の息子に
神社本庁激震!“こんぴらさん”が離脱、「本庁は天皇陛下に不敬極まる」(DIAMONDOnline)近年、神社本庁内部にある不正について取財・掲載している『ダイヤモンド』誌が、スクープのようです。「こんぴらさん」の呼び名と1000段を超える石段で有名な、香川県仲多度郡琴平町にある金刀比羅宮(通称:こんぴらさん)が、いわゆる神社を包括する宗教法人である神社本庁から離脱すると報じられています。以前も、明治神宮が2004年に離脱し、その後復帰するという一件がありましたが、全国的に著名な神社が離脱するのは、神道界全体のイメージダウンにもなりますし、また、その理由が神社本庁側の不正にあるというのなら、今後他の神社も続く可能性もありますので、軽々に扱うことは出来ません。理由の一端については、それこそ『ダイヤモンド』誌が既に報...香川県の金刀比羅神社が神社本庁からの離脱を決定との報道
世界で一番の「長寿国」である日本は、同時に、世界で一番の「寝たきり老人大国」でもあるのだそうです。これって、つまりは、日本人は、「寝たきりで長寿である」ということになってしまいますねえ。やれやれ、世話をすることになる周りの家族にしてみれば、ずいぶんと、はた迷惑な話ではあります。「いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず候こと、まことに、よくよく煩悩の興盛に候にこそ」と親鸞さんが仰ったという旨が歎異抄...
全国的に梅雨に入ってきた。そして、こういう時だからこそ、学んでおきたい教えもある。今日見ていくのは、道元禅師がまだ、宇治興聖寺におられた頃の説法である。上堂に、挙す。鏡清、僧に問う、「門外什麼声」。僧云く、「雨滴声」。清云く、「衆生顛倒、己に迷うて物を逐う」。僧云く、「和尚、作麼生」。清云く、「洎不迷己」。僧云く、「洎不迷己、意旨、如何」。清云く、「出身は尤も易かるべし。脱体の道、応に難かるべし」。師云く、脱体より已来、雨滴声、出身の門外、什麼の声ぞ、迷己不迷己。難易一任你、物を逐い及び己を逐う、顛倒、未だ顛倒せず。『永平広録』巻1-39上堂これは、中国禅宗・鏡清道怤(868~937、雪峰義存の資)と門下の一僧による問答である。一般的には「鏡清雨滴声」という名前で呼ばれていると思う。それで、典拠を一字一句のレベ...道元禅師の雨の説法
仙台藩の初代藩主である伊達政宗には、「遅れてきた戦国武将」とのの異名もあります。いったい何に遅れたのか?政宗が地元・奥州を固めた(政宗23歳)頃には、既に天下は豊臣秀吉のものになっていたのですから、つまり、政宗はバトルロイヤルが演じられていた「戦国の世」に
昨日の朝、チャリで燃やすゴミ出し後、その足で自主ウォーキングコースに行き、いつものスマナサーラ長老法話を聴きながら、1時間ほど歩く。 Lesson5 生命維持に不可欠な行為を瞑想する(食べる瞑想)|スマナサーラ長老のヴィパッサナー瞑想入門⑦ 話のベースはす
ちょっとした備忘録的な記事である。現在の施食会で唱えられるのは『甘露門』であり、江戸時代の学僧・面山瑞方禅師が編まれた文献なのだが、拙僧的に気になっている作法が「五如来焼香」である。この「五如来焼香」であるが、以下のような『甘露門』の流れの中で行われている。・奉請三宝・招請発願・雲集鬼神招請陀羅尼・破地獄門開咽喉陀羅尼・無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼・蒙甘露法味陀羅尼・毘盧舎那一字心水輪観陀羅尼・五如来宝号招請陀羅尼←ここで両班が上位(施食棚に近い方)から東西1人ずつ焼香する・発菩提心陀羅尼・授菩薩三摩耶戒陀羅尼・大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼・諸仏光明真言灌頂陀羅尼(・撥遣解脱陀羅尼ほとんど唱えない)・回向偈←唱えないこともあるさて、それで、通例として「五如来焼香」と行うことになっていて、拙僧もこれまで、各地で随...洞門の施食会に於ける「五如来焼香」と「回向偈焼香」について
修行僧よ。瞑想せよ。なおざりになるな。汝の心を欲情の対象に向けるな。なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。(灼熱した鉄丸で)焼かれるときに、「これは苦しい!」といって泣き叫ぶな。 (ブッダの真理のことば371 中村元訳) 聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、お
今日6月10日は「時の記念日」とされる。『日本書紀』「天智天皇十年四月辛卯」条に、日本で初めて「時の鐘」が打たれたことに由来するという。この時の時計は、「漏刻」といって、水時計であった。それから、先の天智天皇の事績の日付は、「天智天皇10年4月25日」なのだが、これをグレゴリオ暦に変換すると「671年6月10日」となるため、今日をもって、時の記念日としたとされる。拙僧は毎年、この日には道元禅師『正法眼蔵』「有時」巻を参究することにしているため、今日もそうしておきたい。改めて、冒頭の道元禅師の文章を見ておきたい。いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。「有時」巻これは、中国の禅語録で、「ある時」を意味する言葉として、「有時」とあるのだが、その言葉を提唱された部分である。道元禅師は、「ある時」を、「有」...6月10日「時の記念日」と『正法眼蔵』「有時」巻(令和2年度版)
神は、いるのか? 仏は、いるのか?これは、なかなかの物議を醸しそうなテーマですね。こういう、いかにもタッチーな、通常、良識のあるひとならば避けて通りそうな、主題にも、平気で触れてしまう、わたしです。ここは、ひとつ、断言してしまいましょう。神仏は、おります ―― ただし、あなたが、いると信じているのなら、です。われわれは、物質世界に、生きておりますが、同時に、精神世界においても、生きております。恐らく...
我々は生まれると競技場に入り、死ぬとそこを去る。その競技用の車をいっそううまく操るすべを学んだとて何になろう。 byルソー 大多数の人々は、こういうにべないむきだしの事実だけは、聞きたがらない。 聞いても理解しないで、ただちに忘れようとするだろう。
以前、名古屋(笠寺・日本ガイシフォーラム)の「初期仏教デー ヴィパッサナー冥想と法話の会」に参加した。その時のメモと感想。 スマナサーラ長老の法話、質疑応答、初心者瞑想指導が13:30 から19:00までみっちり(15分の休憩1回を挟むのみ)おこなわれた。 非常
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ここでは、「妖精」「妖精の森」「おとぎの國」についてのイメージを、共有し合います。どこかで見た絵夲やファンタジー小説、夢に出てきた世界など、何でも。 また、リアルに妖精の森のような未來を望む書き込みも大歓迎です。 但し、旧スピ的発想や、宗教の勧誘、政党政治の推進、メディアを鵜呑みにしたり恐怖を煽るような書き込みは、すべて却下します。
アフリカ出身の夫と国際結婚し、その生活の中で体験したり学んだり考えたりしています
「純粋な」哲学の話題であれば、何でもどうぞ。 宗教、スピリチュアル、ポエム、政治、社会問題は却下です。 科学哲学は認めます。 なお、オープンな議論を促進するため、コメント機能を有効にすることが望ましいです。
スピリチュアルに触れながらも、それに傾倒しない哲学・思想などを語ってください。 直接的なスピリチュアル批判の場合は、なるべく理性的にお願いします。 スピリチュアル的な考え方は好きだけどハマり過ぎるのは考えもの、という緩い準アンチの方も考えをお聞かせください。 スピリチュアルの構造の客観的な分析なども歓迎です。 みんなの理性を結集してスピリチュアルに対抗しましょう。 なお、オープンな議論を促すためにコメント機能を開放することが望ましいです。
自分を変えようとして苦しんでいる人は多くいます。実は自分を変えようとしていることが間違いなんです。そもそもそのそのままの自分で幸せに暮らすことができます。それができるならみんなそのままの自分で暮らしたいと思っていると思います。そんなそのままの自分で幸せに暮らすためのヒントを発信します。
「奇跡」を司るのが「神」 時間・空間・物質に「奇跡」が起きた。 生命は「奇跡」の連続 「大いなる意思」は「神の愛」 人間は皆、「神の子」です。