聖書に基づくイエス様の救いの証をお語り下さい。短くても結構です。
【(2)】の続きである。早速に本文を見ていきたい。然して后、六十二年を暦て、嵯峨天皇弘仁四年〈癸卯〉慈覚大師、伝教大師の祖意に任じて、延暦寺に於いて戒壇を建立し、普く戒法を授く。其の後、二百五十年に及で、後朱雀院の御宇、長暦年中、山門と三井と、霍執す。三井の沙弥をして、山門の戒壇に入らざらしむ。三井の明尊、奏聞して園城寺に於いて戒壇を建立せんとす。帝、長久二年五月、諸宗の明匠に勅して、三井寺に戒壇を立てるか否かを問わしむ。先づ、律宗の灌昶・法相の経救・三輪(論の誤記)の斎度・華厳の良真・密宗の深覚、皆な上表す。山門堅く之を許さず。寺門、上表五度、白河院、治部郷源隆佼朝臣を勅使として、既に三井寺に戒壇を勅許す。永保元年〈辛酉〉六月九日、山門の衆徒、頻りに強訴を成して、園城寺を焼徹す。三国戒壇記竟〈叡山は延暦寺、三...「三国伝来戒壇記」参究(3)
サティは長く連続的にやらないと本物にならない。 昔の歌「ダークダックス 銀色の道」に ♪苦しい坂だが止まれば下がるボンボボボ♪ てのがありました。 サティは急な坂道を登るようなもの。頂上に行けば一服してだいじょうぶだが、途中で一服するとその度にサ
【(1)】の続きである。早速に本文を見ておきたい。吾が日本国戒法の起るは、聖武天王天平七年〈乙亥〉大唐東都大福禅寺道璿律師来朝して、日本国に華厳の戒法を弘む。大安寺の行表、年七十三法臘五十三にして重受、然れども未だ戒壇を建てず。其の后十九年、孝謙天王勝宝六年〈甲午〉支那白塔寺鑑真和尚入朝して、盛んに戒法を弘む。東大寺に於いて戒壇を建立す。聖武帝入壇受戒、是れ日本国戒壇の始なり。此の鑑真和尚は、天台四代の祖なり。弘景禅師に従って具足戒を受く。弘景(の師)は南山道宣律師なり。親しく授具を度するなり。去る勝宝六年〈甲午〉四月五日、初めて大仏殿前に於いて聖武帝登壇し、菩薩戒を受く。是れ再受なり。同五月朔日、帝、臣卿に勅して、戒壇院を建立せしむ。勝宝七年〈乙未〉九月造成す、乃ち戒壇院に舎那殿の法壇を移す。建立の后、已に八...「三国伝来戒壇記」参究(2)
本稿は、「【完結書庫】生死について」の補完稿です。「生きる意味がわからない」とか、「人生、どう生きたらいいのか、わからない」とか、と言うのが好きですよね、わたしたち。人生の持つ「意味」や「目的」がわからない。これは、当たり前のことです。だって、そんなもの、そもそも存在していないんですから。われわれ人間が現在生きている、その原因は、2020年5月21日付けの記事「すべては、ハジメちゃんの戦略」におい...
1 サティの実践は、なにかをやりながら同時にそれを意識でトレースするダブルタスク作業だ。 2 人間の脳は、ダブルタスクではない(一度に二つのことを同時にできない)。 3 コンピュータは、1個のCPUでも、1秒を非常に細かく分割して二つの作業を
縁があって、加賀大乗寺42世・曇瑞禅苗禅師(?~1799)の説戒を中心とした『禅門戒会弁解』という写本を入手した。おそらくは新出資料である。曇瑞禅師については『曇瑞禅苗禅師語録』の写本が駒澤大学図書館に所蔵され、また、川口高風先生「曹洞宗古規復古運動の主張と反論」(『印度学仏教学研究』35-1、1986年)では、清規論に関する『古規囘復拙考』(具体的には、永平寺50世・玄透即中禅師への反駁書)が採り上げられている。本気で研究するのであれば、これらの文献にも目を通す必要があるだろう。一方で、禅戒・授戒会に関する文献は指摘されていないように思うので、本書についてはまた、解題も含めた記事を書きたいと思っている。もっとも、実世界の論文にするかもしれないし、しないかもしれない。実は、入手した写本は、非常に丁寧な楷書で書写...「三国伝来戒壇記」参究(1)
本稿は、「【完結書庫】生死について」の補完稿です。仏教全般にわたる、最も重要な概念を1つの漢字で表せば、それはなにか?この質問に対する回答は、恐らく、「空」ということになるのだろうと思います。そうです、「色即是空」というときの「空」です。この漢字の意味するものは、当たり前の言葉で言えば、「むなしい」ということですよね。「色即是空」における「色」とは、「この世の中のすべてのこと」というくらいの意味で...
人はただ念仏しやすいように生きるべきだと法然上人は明言している。 普通は「人生のための念仏」と思いこんでいるが、それは間違いで「念仏のための人生」でなければならないとの教えだ。 この人生に対する非常識なスタンスが、極めて重要だとおもう。 おれにとって、こ
サン · ユゼックのキリスト教化されたメンヒル。ブルターニュ地方には、あらゆる場所に巨石が点在しています。直立型のものを『 Menhir (メニール) 』日本語で メンヒル、テーブル状のものを『 Dolmen (ドルメン) 』といいます。
今日、8月10日は山の日である。なお、「山の日」は、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」として、2016年から行われるようになった。今年で5回目であるから、確かにまだまだ親しまれていないのも分かるし、例年は11日だが、今年は行われるはずだった東京五輪・パラリンピックの関係で、10日になっている。ということで、今日という日に於いては、禅僧が説いた「山」の功徳について参究する日と決めている。余りに有名なのが、以下の一節だ。山は、超古超今より大聖の所居なり。賢人・聖人、ともに山を堂奥とせり、山を身心とせり。賢人・聖人によりて、山は現成せるなり。おほよそ、山は、いくそばくの大聖・大賢いりあつまれるらんとおぼゆれども、山は、いりぬるよりこのかたは、一人にあふ一人もなきなり、ただ山の活計の現成するのみなり。さらにい...今日は山の日(令和2年度版)
本稿は、「【完結書庫】生死について」の補完稿です。前稿では、わたしが考える「サトリ」というものの本質についてお話し申しげましたが、ひょっとすると、「あのねえ、あんたが言ってる「サトリ」の内容は、オレ(アタシ)が考えているものとは、ちょっと違う」という感想をお持ちになったかたが、いらっしゃるかもしれませんね。つまり、「サトリ」というものについて語られる際には、よく、たとえば、「作務(さむ)の最中に、...
新しめの版本ではあるが、『義雲和尚語録』を入手したので、最近、改めて学び直している拙僧。そこで、以下の一節が気になったので採り上げておきたい。上堂。仏祖の児孫、専ら須らく道の邪正乗の大小を勘弁すべし。楚鶏を認じて丹鳳と為し、燕石を握りて玉珍と為す底是れ多し。一度び邪坑の小岐に落在すれば、歴劫にも出難し。西天竺国、正像法の時、猶お解脱堅固、禅定堅固、闘諍堅固有り。況んや像季末法に於いてをや。又た況んや辺地遠嶋に於いてをや。然も是の如くなりと雖も、進めば則ち到ることを得る、退けば則ち弥いよ遠し。仏言く、上上の因縁の故に、南洲に生ず、と。既に上上の人身を得る、幸に的的の祖道に値ふ、虚しく光陰を度るべからず。就中、当山の初祖、遙かに万里の曠海を航り、親しく天童浄和尚に見え、謾幢を倒却して、身心脱落し、仏祖の宗風始めて扶...仏祖の児孫が勘弁すべきものとは?
本稿は、「【完結書庫】生死について」の補完稿です。このカテゴリの前稿においては、盤珪さんの言葉を解析することによって、人間は、(その他の生き物も同様ですが)、そのままでホトケである、と結論付けました。しからば、ここで言うところの「ホトケ」とは、なんでしょうか? 当然、それは、「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)」とか、「阿弥陀仏(あみだぶつ)」とか、というところの「ホトケ」とは、ちょっと違いますねえ。つ...
小津安二郎監督による37作目の作品『淑女は何を忘れたか』(1937年公開) What Did the Lady Forget? / 淑女は何を忘れたか (1937) (EN/ES/TR) この時期の小津作品には、まだ観客への迎合が残っている。 はっきり言ってしまえば、客を上から目線で
今日、8月8日は様々な記念日がある。その中で、拙僧個人も思うところがあるのは、「そろばんの日」である。拙僧自身、小学校の時には習っていたためである。なお、由来はそろばんの珠を弾く音が「パチパチ」していることから、今日がそろばんの日になったわけである。さて、例年、この日に因んで仏典・祖録に出るそろばん(算盤)などを紹介していたのだが、今日は以下の一節を見ておきたい。仏法算盤論法華寺と浄土寺とが、垣を隔てゝ隣づから、毎朝、花を折りに出ては、和尚同士で顔を見合せると、つひ、宗論がおつ始まる。或る時、浄土の和尚がいふには、『何う考へて見ても、法華は仏になられませぬ。』すると、法華のお上人が腹を立てゝ、『法華経は、諸経第一とある。何故、仏になれませぬ。何か確かな証拠がありますか。』『おゝ証拠がありますとも。法華宗は、算盤...8月8日そろばんの日(令和2年度版)
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。問うて曰く、五戒と一日戒、何者が勝と為るや。答えて曰く、因縁有るが故に、二戒倶に等なり。但だ五戒は終身に持ち、八戒は一日に持つ。又た、五戒常に持する、時多くして、戒少なし。一日戒は、時少なくして、戒多きなり。『大智度論』巻13「釈初品中戒相義第二十二之一」正直なところ、般若思想に於ける戒法の位置付けを知るためにも、『大智度論』の第13巻などは詳しく参究されねばならないのだが、それはいずれ機会を設けるとして、今日は挨拶程度に以上の記事を挙げておきたい。実は、或る議論の場に於いて、在家戒として五戒と八戒(八斎戒)があるけれども、両者はどういう関係なのか?と聞かれたことがあった。なお、それぞれの戒は以下のように説明出来よう。五戒:在家人の戒律である五戒は、以下の内容である。第...五戒と八戒はどちらが大事なのか?
なんか、仏法を勝負だと思っている人がいるらしい・・・こんな一節はどうか?夫仏法と申は勝負を先とし、王法と申は賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり。日蓮聖人『四条金吾殿御返事』「第十八書」(告誡書)中々に独創的な意見で、これ自体何を典拠にいわれているのか?それこそ、『法華経』あたりにでも出ているのか気になるが、拙僧の拙い調査では典拠不明。なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給べし。「諸余怨敵皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず。兵法剣形の大事も此妙法より出たり、ふかく信心をとり給へ。あへて臆病にては叶べからず候。『四条金吾殿御返事』「第廿七書」(剣形書)そして、何と、日蓮聖人は「法華経の兵法」なんていう表現までしており、その典拠として、『妙法蓮華経』「薬王菩薩本事品第二十三」の一節を「金言」と...仏法とは勝負なのか?
『大品般若経』にたった1箇所だけ「菩薩戒」という字句が出ているようなので、見ておきたい。云何が、菩薩戒の清浄ならん。若し菩薩摩訶薩、声聞・辟支仏心及び諸破戒、障仏道法を念わざれば、是れを戒清浄と名づく。鳩摩羅什訳『大品般若経』巻6「発趣品第二十」うん。これは、「菩薩戒」ではなくて、「菩薩の戒」の意味だな。要するに、大乗仏教の修行者である菩薩が、声聞や辟支仏の心、及び破戒や仏道の妨げになるようなことを想うことがなければ、戒清浄であると指摘されているのである。よって、これはおそらく龍樹菩薩『大智度論』には解説されていないだろうと思っていたら、やっぱりその通り。以下のようにあるのみであった。戒清浄とは、初地中に多く布施を行じ、次に持戒の布施に勝れたるを知る。所以は何となれば、持戒、則ち一切衆生を摂す。布施、則ち一切を...『大品般若経』に見る菩薩戒について
11月25日 逡巡しながら、新潟たれかつ丼を食すことなど。
11月24日 遅読、積読。本のある雰囲気だけで自分は変容する。(「買ったが読んでいない本」からのアピールについて)
11月23日 本と私。(死生観)
11月22日 脈が弱く血圧測れず。。!!! ユングとフロイトと性欲について。
11月21西 かぜのたみさんの低コストライフに学ぶ! 食べるものは大体決まってきた。
11月20日 ぶちきれオバハンに遭遇&げんなりのことなど。
11月19日 グノーシス主義、グノーシス思想のPOINT.
11月18日 (永世厨二病患者談義) グノーシス主義に想う。
11月17日 極悪女王のこと。妬みと嫉みと不倫たたき。
11月16日 古本購入。
11月14日 私に根付く差別意識はどんな感じだろう。美と差別は非常に難しい関係だな、と思う事など。
11月15日 孤独とコミュニケーション。
11月13日 本を購入。
11月12日 我が三上。特に”厠上”のこと。
11月11日 浪漫主義でごめんなさい。
8月4日、語呂合わせで今日は「箸の日」である。まぁ、「橋の日」でもあるようだが、膨らましようがないので、「箸」にしておく。それで、我々禅宗の食事作法について考えてみると、「箸」を使うのであるが、冷静に考えてみると、インドでは本来、素手で食べていたはずだ。その辺の事情について、道元禅師は以下のように示されている。遐に西天竺の仏儀を尋ぬるに、如来及び如来の弟子、右手で飯を摶めて而も食す。未だ匙筯を用いず。仏子、須らく知るべし。諸天子及び転輪聖王、諸国王等、亦た手を用いて飯を摶めて而も食す。当に知るべし、是れ尊貴の法なり。西天竺の病比丘、匙を用いるも、其の余、皆な手を用いる。筯、未だ名を聞かず、未だ形を見ざるなり。筯は、偏えに震旦以来の諸国に用いるを見るのみ。今、之を用いるは土風・方俗に順う。既に仏祖の児孫為り、応に...8月4日今日は箸の日(令和2年度版)
納屋の片づけをしたら、大昔読んだ本を詰めたダンボール出てきて、中にフロイトの「精神分析学入門」もあった。暇だし、ちょっと拾い読みする。 フロイトは、世間が物忘れやしくじり行為に意味はないとみなしているのは間違いで実は意味がある、と主張している。
本稿は、「【完結書庫】生死について」の補完稿です。「生死について考える」という、このカテゴリにおいては、すでに過去15回にもわたって、お話し申し上げております。そして、その過程においては、「宗教」というものについても考えてみましたし、「いのち」というものについても、考えてみました。これらの思考過程は、そのいずれもが、最終的には、「生死とはなにか」、つまり、「人間とはなにか」、を究明することを目的と...
曹洞宗の伽藍に安置される仏像などについて記した文献を見ていると、以下のような記述があった。諸天伝に曰く、鬼子母天、仏、為に五戒を授け、正法に帰依し、須陀洹を得る。仏の精舎に住む。凡そ、人家に子息無き者、之を求めて子を得る。疾病有る者、之に祷り則ち安んず。仏の戒を受けるに由りて、亦た千子を呼ぶ。同じく仏所に拠る。『洞上伽藍雑記』「鬼子母神」項いわゆるインドに於ける神(天)が、仏陀から戒を受けて仏教に帰依をし、守護神になるというのは決して珍しい話ではないが、この鬼子母神もまた、そのような1人である。なお、上記の典拠となる『諸天伝』であるが、宋代の行霆という人の編集になるらしい。なお、『洞上伽藍雑記』では、結構同書に頼って自らの見解を組み立てている様子も見られる。それで、上記内容であるが、鬼子母神に対して仏陀が五戒を...鬼子母神と受戒の話
以前真理発見法「方法的信」について、次のように何度か書いた。 190925「デカルトとブッダの関係」より抜粋再録します。真理発見法には、デカルトの「方法的懐疑」以外に「方法的信」とでもいうべき道もあるはずだ。「方法的懐疑」も危険だが、さらにその100倍も
以前に書いた【(1)】の続編である。そこで、早速に寂室堅光禅師の『告報』を見ていきたい。全19条の内、既に前半10条は取り上げたので、後半9条である。一堂衆、他の寮に往復することを禁ず。如し切用有らば、侍者に命じて之れを弁ずべし。其の侍者の如きは、弁ずべきの事畢れば、驀爾に帰堂せよ。庫厨貼庫に滞在して、他方の是非を取り、来たりて露堂内に顕し、清衆をして定心を壊せしむること莫れ。一庫厨繁務なり、古聖の遺躅なり。豈に学ばざらんや。飯羹頭等、米を淘け菜を択ぶ、正に恁麼の時、須く超然祖意有ることを知るべし。曷ぞ為に雑談戯笑せんや。他を顧みざるに到らんや。一街坊・庫頭弁用するならば、須く日間に於いて出入すべし。宜しく山主及び知事に報ずべし。一次第に行乞する者は、先仏の勝軌、曩祖の家訓なり。威儀寂静、念誦厳粛にして、須く見...寂室堅光禅師『告報』参究(2)
「自恣」というのは、仏教の夏安居(雨安居)が終わるときに、修行僧同士がお互いの罪を披露して、懺悔するという法会を指している。夏安居の解制が7月15日であることから、だいたいはその日の前後に行われている。先月、拙ブログでは意図して盂蘭盆会のことについて書いたが、この法会自体が「自恣」に基づいていることは、何度も確認した通りである。それで、これもまた以前から何度も指摘している通り、禅宗叢林の「清規(軌範のこと)」はそれまでの諸律を博約折中して成立しているのだが、「自恣」についてはそれほど重視している印象が無い。例えば、以下のような記述はどうか?而して七月十五日は、夏安居の竟る時なり、此日を自恣と云ふは、自分の罪をば他人の口に任せて、恣に言はして、以て己れに反省して発露懺悔を為すの意なり、故に随意とも云ふ、今時は自恣...禅宗叢林に於ける「自恣」について
191203の記事「安心なんてないさ」というほんとの安心で 法然上人は、「ああ、今度こそ浄土にいきたいなあ」といつも言っていた。不安になった弟子が「あなたほどの人がそんな程度では、わたしたちはどうしたらいいんですか」と訊いた。上人は笑って「ほんとに浄土にい
六道輪廻の間には、ともなう人もなかりけり。 (一遍 百利口語) これ……どういう意味? 自分のまわりには恋人やつれあいや我が子や両親や友達や恩師や会社の同僚など、いっぱい「ともなう人」がいるじゃないか。 それなのに、一遍上人はなぜ「ともなう人がいない」な
聖書に基づくイエス様の救いの証をお語り下さい。短くても結構です。
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目に見えて分野として、スピリチュアル×心理学を使って、健康になって幸せを目指せます。
成功への極意を伝えます。たったひとつの考動力で0〜無限を生み出す秘密を伝授し 人生が好循環に回り、自分軸であなたがあなたらしく生きていけます。
ここでは、「妖精」「妖精の森」「おとぎの國」についてのイメージを、共有し合います。どこかで見た絵夲やファンタジー小説、夢に出てきた世界など、何でも。 また、リアルに妖精の森のような未來を望む書き込みも大歓迎です。 但し、旧スピ的発想や、宗教の勧誘、政党政治の推進、メディアを鵜呑みにしたり恐怖を煽るような書き込みは、すべて却下します。
アフリカ出身の夫と国際結婚し、その生活の中で体験したり学んだり考えたりしています
「純粋な」哲学の話題であれば、何でもどうぞ。 宗教、スピリチュアル、ポエム、政治、社会問題は却下です。 科学哲学は認めます。 なお、オープンな議論を促進するため、コメント機能を有効にすることが望ましいです。
スピリチュアルに触れながらも、それに傾倒しない哲学・思想などを語ってください。 直接的なスピリチュアル批判の場合は、なるべく理性的にお願いします。 スピリチュアル的な考え方は好きだけどハマり過ぎるのは考えもの、という緩い準アンチの方も考えをお聞かせください。 スピリチュアルの構造の客観的な分析なども歓迎です。 みんなの理性を結集してスピリチュアルに対抗しましょう。 なお、オープンな議論を促すためにコメント機能を開放することが望ましいです。
自分を変えようとして苦しんでいる人は多くいます。実は自分を変えようとしていることが間違いなんです。そもそもそのそのままの自分で幸せに暮らすことができます。それができるならみんなそのままの自分で暮らしたいと思っていると思います。そんなそのままの自分で幸せに暮らすためのヒントを発信します。
「奇跡」を司るのが「神」 時間・空間・物質に「奇跡」が起きた。 生命は「奇跡」の連続 「大いなる意思」は「神の愛」 人間は皆、「神の子」です。