聖書に基づくイエス様の救いの証をお語り下さい。短くても結構です。
「どうして何も言ってくれないの??」・・・意地悪なんじゃなくて、言えないんだよね
自分軸を助けるエッセンス
生きる事は学ぶ事、生きている限り私達のレッスンは続きます~最終レッスン 読書会のご感想
自分再生も、ダイエットと、同じ!
「いい人やめませんか?」
無理は禁物 無理をしても、続かない
韓ドラを見て、自分の「好み」に気づく~2day講座(自分再生基礎講座)のご感想も・・・
節約が楽しくて仕方がない!月8万円で暮らす驚きのメリット7選
自分軸を測るには?ー己を知ることからはじめましょう
ヨガが教えてくれた「自分軸」と「他人軸」
【連載】#0 エッセイ&100のやりたいことリストを実行する理由。
子供のたくましさは、親の信じる力!
明日の風の時代入りに向けて。ある意味決意表明(笑)新たに創るものと手放すもの。
自分への声かけはどうですか??自分に優しい声かけを・・・
過去の出来事の捉え方が変わった~リレーションズ講座NO.1「人生のテーマ」を受講して
江戸時代の洞門が輩出した学僧・指月慧印禅師の主著である『荒田随筆』を学ぶ連載記事であるが、今回から上巻の最後の一章として、「諦縁度」章を学んでみたい。この「諦縁度」章だが、最初、意味するところを測り損ねていたのだが、要するに、四諦・十二縁起・六度という三乗の実践体系などを述べたものであろう。だとすれば、その三乗について詳しく述べられた道元禅師『正法眼蔵』「仏教」巻の説示などを、脇に置いて考える必要があるのかもしれない。ただ、それは実際の本文を見ながら検討していきたい。諦縁度悠悠として迷淪かな。是を群萌と謂、究竟じて之を覚する、是を大覚と謂。其の自覚して他を覚らしむるに、開諭暁示、引て以て道に至しむ。是を乗と謂なり。蓋し車輿の遠に及の義を取れり。而して乗、其の三を分つは、物機の利鈍に随て其の覚をして易からしめんと...諦縁度(其の一)(指月慧印禅師『荒田随筆』参究27)
「あなたの家族ががんのときには本人に知らせてほしいですか?」という質問に、日本人の半数以上がNoと答えるという恐ろしい統計は今でも事実か。 日本人が、家族を思いやる優しさから等言いわけして、末期がんでも本人に知らせてほしくないと医師に要請することが
平田篤胤先生(1776~1843)の『出定笑語』についての連載であるが、今日も本文を見ていきたい。それで、一から十まで全部採り上げるのは、分量的に難しいので、拙僧が読んでいて気になった点を中心に見ていくことにしたい。今日は、タイトルの通り、神仏習合批判に関する一節を見ておきたい。わが鈴の屋の翁がよまれたる歌に、「まが神の世人の耳がふたぐらんまことかたればきく人のなき」と読れた通り、こりや彼古道の大意にあらあら申たる如く、神にも善悪邪正様々有が、其あしく邪しまなる神にまじこられ、耳をふたがれ、真の事をきくことならぬ人々と見えるでござる。釈迦の縁なき衆生は度しがたしといつたのも、かよふの人々の事でも有ませうか。其くせ出家の方で云所は、御国の神をば仏法の下役のごとくいやしめてあるが、それをば何とも思はんでいるでござる...篤胤の神仏習合批判序説(拝啓平田篤胤先生4)
連載は17回目となる。『養老律令』に収録されている『僧尼令』の本文を見ているが、『僧尼令』は全27条あって、1条ごとに見ていくこととした。まずは、訓読文を挙げて、その後に拙僧なりの解説を付してみたい。なお、『令義解』の江戸期版本(塙保己一校訂本・寛政12年[1800]刊行、全10巻で『僧尼令』は巻2に所収)も合わせて見ていきたい。凡そ僧尼、私の事有りて訴訟して、官司に来たり詣でれば、権に俗形に依りて参事せよ。其れ佐官以上及び三綱、衆事若しくは功徳の為に、官司に詣でるべきは、並に床席を設けよ。『令義解』11丁裏を参照して、訓読は拙僧ちょっと、思うところがあって、今回から訓読法は『令義解』に依拠してみたいと思う。江戸時代の読み方になってしまう可能性はあるが、その時代でどう読まれてきたかを探る方が、拙僧的に勉強になる...第十七条・有私事条(『僧尼令』を学ぶ・17)
幕末期に英国駐日公使館付通訳生がいた。その名は「佐藤(薩道)愛之助」。こう聞けば、自然「日系二世」?あたりを連想してしまいますが、その本名を「Ernest Mason Satow」(1843-1929年)といい、生粋の英国人でした。この「アーネスト・サトウ」が着任した頃の日本は、ま
今日の夜だし、関西でしか放送されないようなので見られないけれども。 明日は再放送がある予定。 かんさい熱視線 - NHK かんさい熱視線「私たちは“宗教2世” 見過ごされてきた苦悩」 NHK総合1・大阪(Ch.1) 5月28日(金) 午後7時30分・再放送 5月29日(土) 午前10時55分 親が信じる宗教を信仰することを求められる中で、進学・就職・結婚などの自由が失われたと声を上げ始めた子どもたち。信教の自由をめぐる、知られざる苦悩に迫る。 親が信じる宗教を信仰することを求められた子どもたちの中で、自らを“宗教2世”と呼び、抱えてきた苦悩を訴える人が相次いでいる。「布教活..
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載22回目である。22それどころか教皇が、この世で教会法の定めに従って解決されねばならなかった〔のに解決されなかった〕罰を、〔今は〕煉獄にある魂においては赦すことができる、などということはない。深井氏下掲同著・19頁この辺は、「赦しの秘蹟」の適用範囲というべきものだが、本来はその秘蹟の扱いを定める教会法の定義に従って、現世に於いて解決されなくてはならないことであった。しかし、それがなされず、魂の救済の無いままに亡くなった人について、その魂は煉獄に行っているはずで、今更に煉獄にある魂については、『贖宥状』を用いたことに依る救済など、出来ようはずも無いと指摘しているのである。そういう点からすれば、ル...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・22
新井石禅禅師御垂示の『授戒の心得』(禅の生活社・昭和2年)を拝読していたところ、その冒頭に「祖訓」という一節が掲載されていた。昭和初期という世相を反映して、挙国一致に仏教徒として参ずることを求める内容ではあったが、その中に気になる一節があったので、参究しておきたい。又言く人ありて謗毀すとも曾て咎むること勿れ彼の謗人をあまつさへ敬礼することはありとも厭悪すること勿れ。「祖訓」これは、現代の人であれば、ほとんどの場合納得はすまい。もしかすると、誹謗などに対しては、倍返しという観念もあるかもしれない。それで、この教えであるが、もちろん「祖訓」であるから典拠がある。この一節の前後の文章も合わせて検討しておきたい。即ち重を転じて軽を受くと思ふて、人ありて憎悪すとも、曾て恨むること勿れ。人ありて謗毀すとも、曾て咎むること勿...或る祖訓から学ぶ「不謗三宝戒」
とても残念な報道があった。・線香の煙でぜんそく悪化か九大、換気呼び掛け(共同通信)とはいえ、これは、拙僧自身、或る先生から聞いて知っていたことではあったので、目新しい話ではない(今回の研究は、その明らかな証拠が示されたということで評価される)。実際、知り合いの僧侶の中でも、同様の状態になった場合はあると聞くし、拙僧自身も線香の銘柄によっては咳などが止まらなくなる。それで、そもそも線香とは何なのか?仏教に於ける「香」の歴史は長く複雑である。今回は、以前、拙僧も宗門内向けの随筆を書いた記事などを改変しつつ、まとめてみたい。仏教に於ける「香」としてすぐに思い付くのは、以下の一節であろう。賢者阿難、仏に白して言く、「仏の滅度の後、当に何れの葬を作すべきや」。仏言く、「汝、黙せよ。梵志居士、自ら楽いて之を為す」。又た問う...線香の煙に関する残念な報道
「試経得度(或いは「試経度僧」とも)」という言葉について、おそらくは見慣れないと思う人が多いのではなかろうか。でも、事例的にはよく知られている制度である。そこで、江戸時代の臨済宗妙心寺派・無著道忠禅師が以下のように指摘されているので、その意味の大概を確認しておきたい。仏法金湯編に云く、唐の中宗神龍二年八月、天下に詔し、童行の経義挑通して滞り無き者を試して之を度す〈唐史〉。試経度僧、此に始む。編年通論に云く、唐の肅宗至徳二年、白衣の能く経五百紙を誦する者を、度して僧と為るを聴す。仏祖統紀に云く、宋の仁宗詔して天下の童行を試し、法華経を誦し、選に中る者は度を得る。「試経度僧」項、『禅林象器箋』巻9「第九類叢軌門」、明治期刊本を参照して訓読要するに、出家得度する際の条件として、当該の童行がどれくらい経典を読めるかを試...中国曹洞宗の祖師に於ける「試経得度」について
日々是好日…ならぬ日々是読書。今年もまた、「一年で聖書一周」するべく、通読しておりますが、「産後、かつ、地元を出発する直前(&〆直前)に、ようやく医療費の領収書の束(山)を渡され、半徹夜で確定申告」とか、「『(源泉徴収)あるある』言うてたのに、直前に、『見た記憶がない!(ドーン❗)』と言われる」…などという喜劇を経たのち、しばらくヘタレ(遅れ)気味なキャベツ。恐らく、「きちんと一日4章読んでいるならば、今日は、詩編106編あたりのハズ」です。…………「ハズ」?…………「はい、『ハズ』」……実は、今回の通読、・一ヶ月分、前もって、(手帳後ろの)通読表に鉛筆で日にちを記しておく・実際に読んだら、その日付を赤ペンで記す…という方法を行っているため、「理想」(計画)と「現実」がはっきりくっきり(^-^;💦かくして、今年...日々是読書Psalm119:19
日本人は 死んだ人は、あなたの近くにいる。 と、千年も前から言い続けている。 しかも、これはもちろん日本人だけではない。 人は(私は)死んでも生きてるんだと。 何千年も昔から世界中で、なんど世代が入れ替わっても、人々はこの迷信を鵜呑みにする。
式叉摩那については、【拙Wikiの説明】をご覧いただければ良いと思う。それで、何故、女性の出家者である沙弥尼にのみ式叉摩那が用意されているのは、女性への差別的な配慮なのではないか?という意見もあるのかも知れない。だが、拙僧も以前、その辺を学生の頃に習った限りでは、理由があったということだった。それで、関連して以下の一節を見出したので、学んでおきたい。式叉摩那、六法を二歳受く。問うて曰く、沙弥十戒、便ち具足戒を受く。比丘尼法中、何を以てか式叉摩那有りて、然る後に具足戒を受けるを得んや。答えて曰く、仏在世時、一りの長者の婦有り、懐妊を覚えず、出家して具足戒を受く。其の後、身に大転現ず。諸もろの長者、比丘を譏嫌す。因りて此れ制して二歳の学戒有りて、六法を受けて、然る後に具足戒を受く。『大智度論』巻13「釈初品中讃尸羅...式叉摩那の位置付けについて
ヨブ記を聴く。 www.youtube.com 神と悪魔は、大勢の天使の前で夫婦漫才やってるようなもんだ。 舞台でどつき合っても楽屋じゃ仲がいいと思う。 この何千年も続く長い漫才のネタのために操られる人間は堪ったもんじゃない。
或る文献を読んでいたら、『大般若経』中に見える「在家五戒」について指摘されていた。それで、それが諸法空相的な解釈で面白かったので、その文を引用し、学んでみようと思ったら、何だろう?拙僧が容易に閲覧できる『大般若経』には入っていない文章(?)だった。それで良く分からないままに、検索サイトやソフトを使っていたら、ある一節が出て来たので、こっちを記事にしてみることにした。自ら般若波羅蜜多を行じ、亦た他に般若波羅蜜多の行を勧む。倒るること無く般若波羅蜜多の法を行ずることを称揚し、般若波羅蜜多を行ずる者を歓喜讃歎す。自ら十善業道を受持し、亦た他に十善業道の受持を勧む。倒るること無く十善業道の法を受持することを称揚し、十善業道を受持する者を歓喜讃歎す。自ら五戒を受持し、亦た他に五戒の受持を勧む。倒るること無く五戒の法を受持...『大般若経』に見る漸深戒について
エドウィン・スター。 「ウォー/黒い戦争」 この動画いいね!曲の良さに映像のプレゼン的アイデアがプラスされている。www.youtube.com 戦争で金を儲け平和になると儲からなくなる者達にとって、戦争は明らかに望ましいものだ。しかし戦争が次々起
守護神様のカードメッセージ【2024年11月23日】
守護神様のカードメッセージ【2024年11月22日】
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守護神様のカードメッセージ【2024年11月20日】
守護神様のカードメッセージ【2024年11月19日】
守護神様のカードメッセージ【2024年11月18日】
守護神様のカードメッセージ【2024年11月17日】
守護神様のカードメッセージ【2024年10月26日】
守護神様のカードメッセージ【2024年11月15日】
守護神様のカードメッセージ【2024年11月16日】
守護神様のカードメッセージ【2024年11月】
守護神様のカードメッセージ【2024年11月01日】
守護神様のカードメッセージ【2024年11月02日】
守護神様のカードメッセージ【2024年11月07日】
守護神様のカードメッセージ【2024年11月14日】
以前から、拙僧的に不思議に思っていることがある。それは、大学の講義とかで、「仏教について何でも質問してください」などと学生に尋ねると、他に聞きようがないのか?それとも拙僧の剃りっ剃りの頭を見てなのかは分からないが、一定数で「僧侶は何故髪を剃るのか?」という問いが寄せられる。それで、拙僧個人としては、理由が明確で、道元禅師がそう仰っているから、という理由になる。拝問す。今日の天下の長老の長髪長爪、何の拠有るや。将に比丘と称して、頗る俗人に似たるべし。将に俗人と名づけ、又た禿児の如くなるべし。西天・東地、正法・像法の間、仏祖の弟子、未だ甞て斯の如くならず。如何。和尚、示して曰く、真箇是れ畜生なり。仏法清浄海中の死屍なり。『宝慶記』第9問答、訓読は拙僧(以下、同じ)このように、道元禅師は本師・天童如浄禅師に対して、そ...何故、出家者は髪を剃らねばならないのか?
ちょっと気になる文章を見出したので、紹介がてら検討してみたい。行者を発遣して院を出すが如きは、須らく十分に過有りて、罪状に責伏して、住持人に稟して之を遣るべし。更に決すること須いずして之を遣るが如きは、官中の問難を防避すべからず。『禅苑清規』巻3「監院」項ちょうど、この前後の文章は、寺院内で過ちを犯した者への罰の与え方の問題なのだが、ここは寺院から擯斥(追放)処分を行う時の問題を挙げている。それで、行者(あんじゃなのか?ぎょうじゃなのか?)を遣って、寺院から出す場合には、その理由となるべき過ちが十分にあって、それを更に罪状を確認してそれを責め、そして、住持人にそのことを報告してから追放すべきだという。もし、そういった確たることが無いままに、追放するようなことがあった場合には、「官中の問難を防避すべからず」とある...禅林に於ける「官中の問難」について
この「賜紫衣謝偈」については、【拙Wikiの解説】を読んでいただければと思うのだが、道元禅師が後嵯峨天皇(在位:1242~46)から紫衣を賜ったものの、それを謝(=断った)という一事を示すものとされる。ただし、中世の古伝には遡れず、近世以降に一般的になった話ともされる。それで、この一節について、江戸時代の学僧・面山瑞方禅師による評価を見たので、参究してみたい。昔し永平高祖に後嵯峩帝より紫衣を賜りしとき返上せられければその時の太政大臣道光は、永祖の族兄なりき、勅命を返却と云ことはならぬ例とありしゆへに、受てつかねて高架に安じて偈を作て奏せらるに云く、永平山浅きと雖も、勅命重きこと重重、却て猿鶴に笑はるる、紫衣の一老翁、と。山僧八十年来、これをよみて感涙せぬ時はなし、この陰徳にて七十州に二万四千の法孫はびこるはその...面山瑞方禅師による「賜紫衣謝偈」評
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。満戒上堂〈風外古仏〉仏祖単伝の菩薩戒、纔に持犯を論ずれば八年遅し、残秋の霜葉両三片、用いて黄金と作して小児を誑かす。拙僧所持の法語集写本、訓読は拙僧典拠については、良く分からない。いや、どうも何人かの法語を集めた法語集であることは確かなのだが、筆者者や年代が書かれていないので、江戸時代の終わりか、明治初期くらいということしか推定できていない。しかし、本法語集には、寂室堅光禅師の法語や、上記の通り、風外本高禅師(1779~1847)の法語・上堂語などが収められ、更に誰のものかは不明だが、三重県浄眼寺での結制の法語も見られるので、おそらくは関西や東海地域で書写されたものだろうとは思っている。それで上記の内容である。風外本高禅師による満戒上堂(完戒上堂に同じ)の法語である。意...或る満戒上堂について
www.youtube.com 山田太一原作・脚本 「岸辺のアルバム」全15話。 おれはこのテレビドラマを20代の時に観た。それを今日、数十年ぶりに観返したのだ。一つ一つのセリフが的確で活き活きしている。今でも、少しも古くなっていない。まぎれもない名作だと改めて感服
或る学人が叢林修行に入る際、得度してくれた受業師との関係はともかくも、新たに叢林で指導を受ける参学師から授戒されることがある。ただし、これは文献的な典拠となると、色々と難しい。よって、この記事は備忘録的にならざるを得ないが、機会を得られれば、江戸時代の洞門僧の伝記が集成された文献『曹洞宗近世僧伝集成』(曹洞宗宗務庁)があるので、そこから探っていきたいと思っている。話を戻すが、参学師からの授戒について、事例としてすぐに思い付くのは以下の一件である。癸未(元祿16年[1703])十一月十五日、師戒会を開く。余、初めて正伝の仏戒を受く。師、説戒すること三日、因みに云く……『見聞宝永記』これは、江戸時代の学僧・面山瑞方禅師が、後に本師となられる仙台泰心院8世・損翁宗益禅師に参じた当初、戒会に於いて仏戒を受けたことを示す...叢林に入る際の授戒について
おれ自身を含むたいていの人が空腹を首尾一貫して不快・苦痛と決めつけてるが、これは固定観念(強固な思い込み)であって、事実ではない。 過食によって肥満し不健康になった身体を健康体に戻す減量過程で感じる空腹は快感・安楽だと気づくことが可能だ。 これこそが
一般的に、阿羅漢というと、いわゆる四向四果を得た聖者であり、或いは、部派仏教に於ける人間として到り付く最高位であるが、仏陀そのものではないという理解がされているかも知れない。まぁ、辞書的にはそう書いてある場合が多いが、この定義も色々な経論を詳細に見ていくと揺れが出てくるようだし、大乗仏教などでは全く違う解釈がされることもある。況んや曹洞宗の宗学に於いてをや。それで、今日は道元禅師『正法眼蔵』「阿羅漢」巻を学んでみたいと思う。最近、このブログでは仏教の軌範(戒律や清規)などについて論じていたはずなのに、何で急に?とか思われる方もおられると思うし、或いはそういうことなら、今日は「結夏」じゃ無いの?と思われる方もおられると思う。まず、「結夏」については、既に【結夏の上堂について】で論じたので、そちらをご覧いただければ...今日は5月15日なので『正法眼蔵』「阿羅漢」巻を学ぶ
「副寺」というのは、禅宗叢林に於ける「六知事」の一であるが、調べてみると色々とややこしい。名称についても、「副寺」と書く場合もあるし、「副司」とする場合もある(この辺は、「監院」か?「監寺」か?「監司」か?という問題に通ずる。なお、「監院」の場合、古来は「監寺」と全く同義であった。典拠は道元禅師の『永平寺知事清規』。「監司」は珍しい表現のようだ)。或いは、今や本山僧堂などでは「副監院」という役職名にしている場合もあるという。これは、典拠がない新しい表現であり、近年の慣習的呼称のようだから、今回の考察からは外す。それで、「副寺」について、まずは定義的なところから見ておきたい。古時は監寺のみ。近日都寺と称するは、即ち監寺なり。副寺と称するもまた監寺なり。近代は寺院繁務なり、よって両三の監寺を請するなり。道元禅師『知...「副寺」の一考察
“地球は丸い“ことを始めて知った日本人は誰で、またそれはいつのことだったのか?初めて精密な日本地図(伊能図)を作った江戸後期の測量家・伊能忠敬(1745-1818年)がそれを承知していたことは間違いありません。彼は“地球は丸い”とする天文学を修めていましたし、その
楽天ブックスの ほぼ半額 謝恩価格の 紙の本を 注文しました お買い物マラソンの 150円オフの クーポンも使用できたので 定価購入が原則の紙の本としては かなり お得に購入できました
貪瞋痴とんじんちの奴婢ぬひは、 地獄に生れたら、 地獄に生れて良かった とおもう。 天界に生れたら、 天界に生れて良かった とおもう。 今、地上にいるので、 地上に生れて良かった とおもっている。 そして
数年前のある日、キリスト教系の伝道者二人組来訪。玄関で5分ほど立ち話。 エバが善悪の知恵の実を食べた話になった。 「先に知恵の実を食べて賢くなったエバは、アダムに食べないほうが善いよと教えてあげられるはずなのに、食べるように唆した」とおれ。 悪い天
以前、ガッテン!「まさか!ダイエットで肝臓病!?」を見ておもったこと。 見る前から、当時の自己流ダイエットが該当する予感がしてた。 で、悪い予感的中! [知識] 急激減量急激リバウンドの繰り返しが脂肪肝を作り、肝硬変・肝がんのリスク上昇。 急
或る先生の文章を読んでいたら、「羯麿(読み方は「こんま」にしたいのだろうが、「こんまろ」に見えた)」と書いてあった。一見して誤記か誤植だとは思ったが、高名な先生なので、もしかして、そういう風に表記する文献もあるのだろうか?と思い、近年よく使われている『大蔵経』の検索サイト・ソフト等で調べたが、ヒットせず。まぁ、そりゃそうか、と思った。とはいえ、「羯磨」は、梵語karma(n)(カルマ(ン))の音訳なので、「麿」もあり得なくはないか?なんて、妄想してしまったのだが、すぐに気付いた。あれ?確か「麿」って、「麻呂」を組み合わせた合字で、国字だったはずでは?と。手元にあった一般的な漢和辞典にも、そう書いてあるので、拙僧の妄想は終了……ところで、仏教語の「羯磨」の話だが、本来の意味は「業」「行為」となるが、更に、戒律の用...「羯麿(こんまろ)」の話
足袋と襪子について、或る見解を見出したので紹介しておきたい。襪の字を日本でしたふづとよまする、履をふくときは、襪と下につくる、草履ふむと云は、日本にはく処の蹈皮也、草履をはく時、襪子をつけねばならぬと云ことはない、たびですむ也、けれども大小用にいくものを蹈で、坐具に上るはならぬ、新ふたびをこしらへて、今の襪子の様に、大小用にいくときは、ぬいでいくがよい、面山瑞方禅師『宝慶記聞解』坤巻・10丁裏~11丁表、カナをかなにするなど見易く改める拙僧の拙い調べではあるが、道元禅師の時代にはまだ、「足袋」はなく、「襪子」のみだったと思っているのだが、上記のように江戸時代には既に、足袋と襪子とが使い分けられていた様子を知ることが出来る。ここで面山禅師が仰っていることとは、襪の字について、これを日本では「したふづ」と読むという...足袋と襪子の関係について
聖書に基づくイエス様の救いの証をお語り下さい。短くても結構です。
手相占いについてのテーマを作りました♪ お気軽にご参加ください!
目に見えて分野として、スピリチュアル×心理学を使って、健康になって幸せを目指せます。
成功への極意を伝えます。たったひとつの考動力で0〜無限を生み出す秘密を伝授し 人生が好循環に回り、自分軸であなたがあなたらしく生きていけます。
ここでは、「妖精」「妖精の森」「おとぎの國」についてのイメージを、共有し合います。どこかで見た絵夲やファンタジー小説、夢に出てきた世界など、何でも。 また、リアルに妖精の森のような未來を望む書き込みも大歓迎です。 但し、旧スピ的発想や、宗教の勧誘、政党政治の推進、メディアを鵜呑みにしたり恐怖を煽るような書き込みは、すべて却下します。
アフリカ出身の夫と国際結婚し、その生活の中で体験したり学んだり考えたりしています
「純粋な」哲学の話題であれば、何でもどうぞ。 宗教、スピリチュアル、ポエム、政治、社会問題は却下です。 科学哲学は認めます。 なお、オープンな議論を促進するため、コメント機能を有効にすることが望ましいです。
スピリチュアルに触れながらも、それに傾倒しない哲学・思想などを語ってください。 直接的なスピリチュアル批判の場合は、なるべく理性的にお願いします。 スピリチュアル的な考え方は好きだけどハマり過ぎるのは考えもの、という緩い準アンチの方も考えをお聞かせください。 スピリチュアルの構造の客観的な分析なども歓迎です。 みんなの理性を結集してスピリチュアルに対抗しましょう。 なお、オープンな議論を促すためにコメント機能を開放することが望ましいです。
自分を変えようとして苦しんでいる人は多くいます。実は自分を変えようとしていることが間違いなんです。そもそもそのそのままの自分で幸せに暮らすことができます。それができるならみんなそのままの自分で暮らしたいと思っていると思います。そんなそのままの自分で幸せに暮らすためのヒントを発信します。
「奇跡」を司るのが「神」 時間・空間・物質に「奇跡」が起きた。 生命は「奇跡」の連続 「大いなる意思」は「神の愛」 人間は皆、「神の子」です。