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前々回から始まった、平田篤胤先生(1776~1843)の『出定笑語』についての連載であるが、今回から本文に入っていこうと思う。ところで、こういう連載をする時に、いつも迷うことがあって、それは毎回どれくらいの文章を取り上げるべきか?と迷っている。例えば、既に連載を終えた富永仲基『出定後語』については、章立てがあったので、毎回1章などと決めていれば良かった。しかし、『出定笑語』は、本編全4冊という区分けはあるが、本文に簡単な段落程度はあるものの、講演の回数などで分けているわけではないようである。かなりの分量であるから、1回の講演というわけは無いはずだが、この辺は敢えて一編の著作として編集したということなのだろうか。そこで、勝手ながら、或る程度の文章を読み込んで、適切と思われた「題(各記事のタイトル)」を決め、それに...『出定笑語』の大意(拝啓平田篤胤先生2)
連載は15回目となる。『養老律令』に収録されている『僧尼令』の本文を見ているが、『僧尼令』は全27条あって、1条ごとに見ていくこととした。まずは、訓読文を挙げて、その後に拙僧なりの解説を付してみたい。なお、『令義解』の江戸期版本(塙保己一校訂本・寛政12年[1800]刊行、全10巻で『僧尼令』は巻2に所収)も合わせて見ていきたい。凡そ僧尼、苦使犯せること有らば、功徳を修営し、仏殿を料理し、及び灑き掃う等に使え。須く功程有るべし。若し三綱顔面って使わずば、即ち縦せる所の日に准えて罰苦使せよ。其れ事の故有りて、聴許すべくば、並に其の事の情を審らかにして、実を知りて、然して後に請うに依るべし。如し意故有りて、状無きを輙く許せらば、輙く許せる人は、妄りに請える人と罪同じ。『日本思想大系3』220頁を参照して、訓読は拙僧...第十五条・修営条(『僧尼令』を学ぶ・15)
江戸時代の洞門が輩出した学僧・指月慧印禅師の主著である『荒田随筆』を学ぶ連載記事であるが、今は「戒定慧」という一章を学んでいる。早速、本文を見ておきたい。大聖の世を統る、其の所に有するに因て、以て教を立て、極に至しむ。若し極に至こと有は、乃ち固より有ことを見るべきなり。而して学の道は、唯だ人に在ことは、則ち情欲の過習で、而も性と成り、其の本に反せり。故に、今の情欲に就て、而して此の学を設て、以て其の反する者を反せしめんと欲す。彼の情欲の成は、本を去こと遠し。苟も遠に向ことは、必ず迩より自すべし。故に入に教て其の迩く学て而も習の道を以す。戒有て而も過悪去べし。定有て而も煩囂免べし。慧有て而も道環照べし。是、学は始終有とも而も其拠る所の道は、則ち凡聖一揆なる所以なり。苟も貫統せざれば、三皆成こと無のみ。久かな、吾徒...戒定慧(其の八)(指月慧印禅師『荒田随筆』参究25)
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載20回目である。20だからこそ教皇は、すべての罰についての完全な赦しを与えることで、それによって単純にすべての罰が赦されると理解するのではなく、それはただ自らが科した罰の赦しだけだと理解しているのである。深井氏下掲同著・18頁要するに、教皇は罰への赦しを与えることが出来るが、それは、全ての罰(それこそ、神が定めたことに対しての罪に基づくもの)には及ぶことがなく、あくまでも自ら(教皇、或いは教会法に基づく)が科した罰の赦しくらいだとしているのである。例えば、煉獄にいった魂などについての赦しは可能かどうか、といった問題について、ルターは否定的に扱っている。有り体にいえば、「神の代理人」は、しょせん...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・20
現在、我々が一般的に「入寺式」と呼ぶ作法は、『行持軌範』では「請首座法」という。しかし、その制定には紆余曲折があったことが知られる。入寺式の事は、固より諸清規に無き者なり、宗内に中古以来一会結制等に於て首座の為に安下処を設けて入寺すること、恰も住持の晋山に類似するもの、其の何の理由たるを知らず、弊の甚きなり。按ずるに現今結制の首座は、諸清規に称する処の首座と其名同ふして其実を異にす。今の首座は三出世の初級にして一種特別の任職と成れり。故に請首座亦特別ならざる可らず。勅修に立僧首座を請する法名徳首座を請する法あれども、今時の用に適せず。禅苑に諸知事・請頭首法あり、勅修に両序進退法あり。僧規・小規は其の全文を採り、又は之を演べ書にせし等皆な今時請首座の法に適せざるのみならず、行礼煩に過ぎ、前後錯雑して穏当ならず。依...「請知事法」と「入寺式」について
禅宗の開祖とされる菩提達磨尊者の著作として『少室六門』というのが知られている。ただし、知っている人が多いと思うが、この辺、とっても微妙な扱いだ・・・このような伝記の変化と並行する形で、達摩の名を冠する著作(達摩論)も続々と現われた。北宗系の『悟性論』や南宗系の『血脈論』が代表的なもので、それぞれ各派の思想を反映した内容となっているが、こうした達摩仮託書の多くは、思想の進展とともに捨て去られる運命にあり、また、語録の成立によって、表現手段としても歴史的使命を終えたため、次第にその製作も行われなくなった。伊吹敦先生『禅の思想』法蔵館、15頁つまり、達摩(達磨)の名前を冠して作られた文献があるということだ。なお、『少室六門』の中には、『二種入』という著作も入っていて、これは、一応、達磨が書いたかも知れない『二入四行論...『血脈論』は誰が書いた?
最近、改めて日本の葬儀や葬送儀礼、葬送文化について書かれた新書などを見直しているのだが、ちょっと気になった一節を見出した。亡くなってからあとの受戒については、『梵網経』に語られている。つぶさには『梵網盧舎那仏説菩薩心地戒品』という。これも中国で作られた経典、いわゆる疑経である。そこには、親族が亡くなったその日に僧侶に依頼して菩薩戒を唱えてもらうとある。その功徳で天に生まれるようにはかる。『禅苑清規』でもまさに亡僧が亡くなった日に誦戒する。すなわち戒を読みあげたのである。戒を受ける。そうすることで仏弟子になる。すなわち出家者になる。戒を授けられた出家者には、出家者としての名があたえられる。戒名という。没後に戒名を授ける日本の習慣はここからはじまった。菊地章太先生『葬儀と日本人―位牌の比較宗教史』ちくま新書・201...そもそも「戒名」という用語はいつから使われたのか?(14)
今日は、以下の御垂示を学んでいきたい。殊に第五日目の夜間には特別に懺悔道場を設け戒弟は一人一人其道場に入り戒師の前にて「障罪無量」と唱へて懺悔する、戒師は仏の御名代として其懺悔を受ける、それより本堂に於て焼香して捨身供養の式を勤めるのである、吾々が自ら顧みて煩悩と罪障の垢れを愧ぢて将来の言行を慎しみ、仏の御済度を仰ぎて信心歓喜に涵りなば、其時此全身心が浄められて、仏の御慈悲力に抱かるることが出来る、新井石禅禅師御垂示『授戒の心得』(禅の生活社・昭和2年)6頁下段、漢字など見易く改める大本山總持寺の貫首であられた、新井石禅禅師(独住第五世、1865~1927)の御垂示である。端的に、授戒会中の七日間の加行について、特に5日目の「懺悔道場」について提唱された文脈である。気になるのは「障罪無量」の記述と、捨身供養との...「懺悔道場」への御垂示
今日で令和3年度の春の彼岸会も終わるのだが、今日という日に因んで、以下の一節を学んでおきたい。波羅蜜といふは、彼岸到なり。彼岸は去来の相貌蹤跡にあらざれども、到は現成するなり、到は公案なり。修行の、彼岸へいたるべしとおもふことなかれ。これ彼岸に修行あるがゆえに、修行すれば彼岸到なり。この修行、かならず遍界現成の力量を具足するがゆえに。『正法眼蔵』「仏教」巻これは、道元禅師が「三乗」について提唱された箇所で、ご覧の通り「菩薩乗」に於ける「波羅蜜」を示されたものなのだが、この「波羅蜜」というのは既に説明している通り、「パーラミター」の音訳で、意味からすれば「到彼岸」と説明してきた。然るに、道元禅師は「彼岸到」とされ、「到」の位置が逆転しているのである。もちろん、「彼岸に到る」という漢語からすれば、「到彼岸」の方が一...彼岸到と到彼岸(令和3年度版春彼岸)
春の彼岸会期間中である。新型コロナウィルスの状況については、一部地域では厳しいが、そうでもない地域では、是非、この機会を捉えて、菩提寺や御先祖様が眠られる墓地へのお参りいただくのは如何だろうか。ただお参りいただくのであれば、感染リスクは高くないと思うためである。さておき、今回の彼岸会では、漢訳・漢語の仏典中に見える、「彼岸」及びその対義語の表現を見ていきたいと思う。例えば、以下の一節などはどうか。是の善男子、善女人布施する時、是の念を作す、「我れ是れ施主、我れ是の人に施す、我れ是の物を施す。我れ持戒し、我れ忍辱を修し、我れ精進し、我れ禅に入り、我れ智慧を修す」と。是の善男子、善女人、是の施、是の我施有りて念じ、乃至、是の慧、是の我慧有りて念ず。何を以ての故に、檀那波羅蜜中、是の如き分別無し、此・彼岸を遠離すれば...春の彼岸会期間中(4・令和3年度版)
春の彼岸会期間中である。新型コロナウィルスの状況については、一部地域では厳しいが、そうでもない地域では、是非、この機会を捉えて、菩提寺や御先祖様が眠られる墓地へのお参りいただくのは如何だろうか。ただお参りいただくのであれば、感染リスクは高くないと思うためである。さておき、今回の彼岸会では、漢訳・漢語の仏典中に見える、「彼岸」及びその対義語の表現を見ていきたいと思う。例えば、以下の一節などはどうか。是の如く我れ聞けり、一時、仏、王舎城の迦蘭陀竹園に在す。時に、生聞婆羅門有りて仏所に詣で来たり、仏足を稽首して、退いて一面に坐し、仏に白して言わく、「瞿曇よ、説く所の此・彼岸、云何が此岸なるや、云何が彼岸なるや」。仏、婆羅門に告げ、「殺生は、此岸と謂う。不殺生は、彼岸と謂う。邪見は、此岸と謂う。正見は、彼岸と謂う」。爾...春の彼岸会期間中(3・令和3年度版)
今日は春の彼岸会御中日である。もちろん、世間一般には「春分の日」と呼称されて、祝日ではあるが、元々土曜日であるから、有り難さは余り無いかもしれない。とはいえ、こういう機会を捉えて、是非に菩提寺や御先祖様のおられる墓地に参拝していただきたいと、拙僧はただただ願う。ところで、何故、菩提寺や御先祖様への参拝を促すのか?それは彼岸会自体の位置付けに由来する。彼岸会について、その成立については、【彼岸会―つらつら日暮らしWiki】をご覧いただければ良いと思うのだが、実際の成立は良く分かっていないといって良い。いわば、民間信仰と、仏教の教理や実践とが、適度に組み合わされた習合的行持なのである。もちろん、その習合の度合いで、色々な組み合わせやその濃淡が発生するので、それ自体が宗教の文化的意義を研究する人には良い研究対象を提供...今日は春の彼岸会御中日(令和3年度・春分の日)
春の彼岸会期間中である。新型コロナウィルスの状況については、一部地域では厳しいが、そうでもない地域では、是非、この機会を捉えて、菩提寺や御先祖様が眠られる墓地へのお参りいただくのは如何だろうか。ただお参りいただくのであれば、感染リスクは高くないと思うためである。さておき、今回の彼岸会では、漢訳・漢語の仏典中に見える、「彼岸」及びその対義語の表現を見ていきたいと思う。例えば、以下の一節などはどうか。煩悩の無き処を般涅槃と名づく。無相の処を名づけて彼岸と為す。迷時に此岸有り。悟時に此岸無し。何を以ての故に、凡夫、一向に此に住すと為す。若し最上乗を覚る者は、心、此に住せず、亦た彼に住せず。故に能く此彼の岸を離るるなり。若し彼岸を此岸と異なれりと見れば、此の人の心、已に禅定無し。煩悩を衆生と名づく。悟解を菩提と名づく。...春の彼岸会期間中(2・令和3年度版)
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春の彼岸会期間中である。新型コロナウィルスの状況については、一部地域では厳しいが、そうでもない地域では、是非、この機会を捉えて、菩提寺や御先祖様が眠られる墓地へのお参りいただくのは如何だろうか。ただお参りいただくのであれば、感染リスクは高くないと思うためである。さておき、今回の彼岸会では、漢訳・漢語の仏典中に見える、「彼岸」及びその対義語の表現を見ていきたいと思う。例えば、以下の一節などはどうか。何をか波羅蜜と名づくるや。此れは是れ西国の語、唐に言わく到彼岸と、義を解すれば生滅を離る。生滅の起るの境に著すれば、水の波浪有るが如し、即ち名づけて此岸と為す。『六祖壇経』「般若第二」項六祖慧能禅師本人が、訳語などについてどこまで知識があったのかは知らないが、この人には『金剛経口訣』という文献があった、なんていう指摘も...春の彼岸会期間中(1・令和3年度版)
今日から春の彼岸会である。彼岸会の成立や展開については、【彼岸会―つらつら日暮らしWiki】をご覧いただければ良いと思う。それで、今回の彼岸会では、漢訳・漢語の仏典中に見える、「彼岸」及びその対義語の表現を見ていきたいと思う。例えば、以下の一節などはどうか。宏智禅師、天童に住せし時、浴仏の上堂に云く「清徹性空水、円明浄智身。箇中に体を洗わず、直下に了に無塵なり。成仏有り、降神有り、彼岸有り、迷津有り〈以下略〉」。『永平広録』巻3-256上堂ここで、道元禅師は宝治2年(1248)4月8日の釈尊降誕会に於いて、中国曹洞宗の宏智正覚禅師の上堂語を引いたのだが、その中に「彼岸と迷津」という表現が見られるのである。そして、当然にこれは、彼岸は悟りの世界、迷津は迷いの世界に対応する。そして、一般的な「彼岸と此岸」とに比べる...今日から春の彼岸会(令和3年度版)
仏教と一神教系宗教の最大の違いは、いわゆる宗教者になった後で、辞めることが出来るかどうかが問われることである。一神教系宗教では宗教者になるということは、基本的に「神に選ばれた」ことを意味するため、人間側の都合で辞めることが出来ない。現実の宗教組織という観点では、辞めることが出来ても、宗教的には辞められていないのだ。その点、仏教は「還俗」という言葉の通り、出家者であってもそれを辞めて、俗に還ることが出来る。そして、江戸時代初期の洞門学僧である独菴玄光禅師(1630~1698)が、還俗論を採り上げておられるので、それを見ておきたい。僧の俗に還るは、仏の在世、已に然り。況んや今世に於いては、異するに足らざるなり。然るに昔人、質直にして偽無く、跡、行を羨やまず、言、情の溢れず。所以に、出家学道、或いは困じて持戒の任重く...独菴玄光禅師の還俗論(1)
ちょっとした論考を書くに及んで、先行研究として挙げようか迷い、結果として扱っている問題が違いすぎることから挙げなかった論文がある。それが、鏡島元隆先生の「円頓戒と禅戒・仏祖正伝菩薩戒」(『道元禅師とその周辺』収録)なのだが、この論考の「一円頓戒と禅戒」では、、江戸時代に曹洞宗内に天台宗所伝の円頓戒と、宗門所伝の禅戒との同異を検討した事例を挙げつつ、特に禅戒の淵源について示したもので、非常に参考になった。とはいえ、今回、拙僧が論じたのは、曹洞宗内での禅戒(または禅戒一如)の議論に対し、それを批判したタイプの議論が存在したことであった。その点、鏡島先生は虎関師錬が明庵栄西の戒について、かなり無理をして禅戒と円頓戒の一致を目指したことを示されるところに、その力点が置かれていた。虎関師錬の戒学については、別個検討される...円頓戒と宗門の戒について
以前から、『曹洞宗全書』「解題」巻に於ける、梅峰竺信禅師『林丘客話』への解題(担当:鏡島元隆先生)が気になっていた。それは、以下のようにあることである。然し、後の嗣法論争において大きな問題となった、大陽投子代付問題について、本書はこれを取上げている。しかも、注意すべきことは、後の嗣法論争において一師印証・面授嗣法の宗義に反するとして、史実として否定された大陽投子代付問題が、本書では史実として認められていることである。『曹洞宗全書』「解題」巻・258頁下段鏡島先生は上記のように指摘されており、拙僧自身、この指摘について、どう会得していくか、大学院の頃からの参究課題であった。何故ならば、梅峰竺信禅師(1633~1707)といえば、卍山道白禅師(1636~1715)と共に、「宗統復古運動」の中心人物として活躍され、実...梅峰竺信禅師『林丘客話』下巻に於ける代付肯定論について(1)
この辺は、既に実世界の論文でも書いたことがあるので、まずは、備忘録的な記事である。曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師(1264~1325)の首先住職地は、阿波城万寺(現在の徳島県海部郡)であることが知られているが、この経緯については、『洞谷記』が伝えている。廿八にて阿州海部の城万寺の住持に充つ、廿九にて永平寺の演老に就いて、受戒の作法を許可せらる、即年の冬初、始めて戒法を開き、最初、五人を度し、卅一に至り、七十余人を度す、卅二にて加州大乗開山介和尚の宗旨を参得して、嗣法して長嫡と為り、大乗最初の半座と為り、分食と分院の佳名を得て、超師の気概の証明を得る。大乘寺所蔵・古写本『洞谷記』、訓読は拙僧ということで、以上となるのだが、拙僧的に未だに良く分かっていないことが複数存在している。まず、上記の経緯の真偽については、もはや...瑩山紹瑾禅師の阿波城万寺での授戒についての雑考
今日3月11日は、東日本大震災から10年である。改めて亡くなられた方々へ哀悼の意を表したい。また、ご身内や友人、縁者を亡くされた全ての方々にもお悔やみ申し上げたい。なお、こういう時には当然、供養が問われるべきであろう。曹洞宗には道元禅師『正法眼蔵』「供養諸仏」巻や、江戸時代の学僧・天桂伝尊禅師による『供養参』の存在が知られているが、ここでは以下の一節を通して学びを深めてみたい。善男子、汝、今、受戒の後、まさに須らく頂戴奉持すべし。持する所の戒律を違犯することを得ざれ。三宝を供養し、福田を種えることを勤めよ。『禅苑清規』巻9「沙弥受戒文」この一節は、中国の禅林に於いて、在家者が沙弥として出家する際に、式師(戒師)が唱える一節である。具体的には、沙弥十戒を受けた後で、その受けた戒を良く頂戴奉持し、違犯することが無い...持戒と供養
「水板」とは、現在の曹洞宗で用いる応量器(鉢盂)に入る法具である。ところが、この法具について、道元禅師の『赴粥飯法』には出ていないことは夙に有名である。それで、色々と文献を見ていくと、江戸時代の諸清規にも出ていないことが分かった。そのため、他にも調べてみたところ、戦後の『昭和改訂曹洞宗行持軌範』(昭和25年)に見出し、以下のようにあった。次に身に向ふ方の複角を以つて鉢を包み、牀縁に垂れた方の複角を身に向けて重ね包み、浄巾を畳んで(横に二つに折りまた縦に三つに折る)其の上に置き、匙筯袋と水板とを浄巾の上に置き鉢拭の皺を伸ばして覆ふ様に置き、次に両手を以て左右の複角を取り鉢の中央にて結ぶ、結び返しにして袱紗の両端は同じく右に垂れる。「収鉢」項、『改訂軌範』「赴粥飯法」22頁以上のように、「水板」は収鉢時に急に出てく...「水板」の謎
今日3月9日は、語呂合わせで「3・9」⇒「サンキュー」⇒「ありがとうの日」としている。禅林では、堂頭が役寮に対して「謝」する機会が見られた。例えば、以下のような一節はどうか。維那に謝する上堂、鉄槌無孔、仏祖単伝す。拈得して用て承虚接響す、一時に打殺す野狐禅。『永平広録』巻5-385上堂「維那」に謝するということで、会下で維那を務めた僧の任期が来たので、交代するに及び、感謝した上堂である。なお、逆に拝請する場合には「請維那上堂」となる。もちろん、他の役の場合には「維那」の部分が、別の役職名(首座や典座など)となる。道元禅師は、興聖寺時代はこれらの上堂をした記録は無いのだが、越前大仏寺を開単されてからは、たびたび行われた。本上堂もその1つである。内容を簡単に読み解けば、維那が僧堂で撃っていた鉄槌には孔が無く、その丸...3月9日「ありがとうの日」(令和3年度版)
これまでの記事は、【続「梅は寒苦を経て清香を発す」について】をご覧いただければ良いと思う。禅語であるとも、或いは、何かの古典、詩偈等々、様々な評価がされる「梅は寒苦を経て清香を発す(梅経寒苦発清香)」について、意外なところに関連する記述を見付けたので、それを紹介しておきたい。それで、関連する記述が載っていたのは、拙僧所持の写本『法戦集』である。おそらくは江戸時代の中後期頃の成立、または書写とは思うのだが、奥書等が無いため一切不明である。内容は、名称の通り「法戦式」に用いる問答集である。ただし、内容を読んでみたが、宗派を定めかねている。まぁ、色々と出てくる文言から、曹洞宗だとは思うのだが、禅問答は臨済宗こそ非常に盛んであるため、その線も捨てきってはいない。以上のような状況ではあるが、手元の『法戦集』の一部でも読み...続々「梅は寒苦を経て清香を発す」について
加賀大乘寺27世・卍山道白禅師(1636~1715)は、本師である月舟宗胡禅師が再興した禅戒会を、更に敷衍して『対客閑話』『禅戒訣』などの提唱を行ったことでも知られるが、その中に気になる一節を見出した。客、予の緒言を聞いて云く、「近世洞門の一員知識有りて、洞門の衣を著け、洞門の飯を喫しながら、専ら他の黄檗派下の戒会を開き、戒子に告げて云く、『今、洞門のいわゆる禅戒は、月舟・卍山の造作する所、信用するに足らず』と。未審、其の説有りや」。予云く、「噫、是れ阿毘達磨順正理論のいわゆる魑魅魍魎の魅する所、軽く此の言を発する者か。爾らず。則ち、畏るべき大悪言なり。前のいわゆる永平・大乘・大慈の三処の室中の真本、諸方の古刹に伝来の旧本、舟翁と雖も、老衲と雖も、争か能く一字を其の間に増損することを得んや。若し、一字たりと雖も...卍山道白禅師による授戒会作法批判への反論
今日は3月6日、語呂合わせで「三徳六味」について考える日としている。ところで、この言葉の意味については、「三徳六味―つらつら日暮らしWiki」をご覧いただければ良いと思う。なお、これは既に【「三徳六味」の話】という記事でも書いた通りだが、中国禅宗では「三徳六味」という言葉を問答に用いていた。今日もそんな一節を紹介しておきたい。首座に謝する上堂に云く、弥勒看れども見えず、釈迦説けども得ず。恁麼尊貴生、日用に差忒無し。得と不得、識と不識と。三徳六味の味逾かに多し、千古万古に規則と為す。『法演禅師語録』中国臨済宗楊岐派の五祖法演禅師(?~1104)の語録から引用してみた。首座に就いていた僧に謝する上堂である。上堂の意味であるが、弥勒は看ようと思っても見ることができず、釈迦は説こうとしたが説けなかった。そのように首座は...「三徳六味」に関するお話し(令和3年度版)
今日3月5日は「山居の日」である。もちろん、こんなことは、おそらく誰も言っていない。拙僧が語呂合わせで勝手に主張しているだけである。そこで、「山居」というのは、文字通り「山に居す」ということで、禅僧などが城邑を離れて山林に籠もり、修行することをいう。拙僧ども曹洞宗の高祖・道元禅師(1200~1253)には、『永平広録』巻10に「山居」と題された偈頌(漢詩)15首と、『道元禅師和歌集』にも同じく「山居」と題された道歌(和歌)が2首収録されている。しかも、他の先達にも多く「山居」と題された偈頌等が残されており、これらを参究する機会を設けるために、「山居の日」を唱えてみた。ただし、拙僧自身の僧籍地は山奥なので、「山居」っぽいのだが、今はそういう場所に住んでいるわけではない。しかし、常に拙僧は「孤独」である。そういう心...今日は山居の日(令和3年度版)
かなり怖い文章を見付けてしまった。もしかすると、人権的な問題を含む内容かもしれない。よって、怖いことが苦手な方は、これ以上読み進めないことをオススメする。それでは、以下の一節を見ていきたい。尸羅敲髄の尾に跋す武城福寿院の甘露英泉は、洞下の僧なり。生質敏利なりと雖も、其の識を覆盆す。才、亦た襪線にして、内に信根無く、外に我見を逞しくす。其れ書に著くなり。胡乱の指注、法に益無く、人を利さず。只だ先徳を毀罵して以て己の意を快ならんと欲するのみ。嗚呼、愚なるかな。今茲に八月十六日、疾無くして血を嘔く。幾乎、一升七合計りにして、暴死す。此の事、武城青松寺の僧、直ちに福寿隣峯の総泉寺の僧の語に聞く。而して、書に加えて余に告げる。余、感懼すること一ならず。偈を打して彼の著す所の、尸羅敲髄の尾に書くものなり。偈に言わく、甘露人...面山瑞方禅師「尸羅敲髄の尾に跋す」を読む
今日3月3日は世間としては上巳の節句である。この日の様子については、【今日は上已の節句(桃の節句)(平成29年度版)】や【今日は上巳の節句(令和2年度版)】などをご覧いただければ良いのだが、今日はまず、以下の一節を見ておきたい。元亨四年甲子三月三日、法座鉞立す、己丑の日、予の六合日なり、仏、鹿野苑に在りて、初めて法輪を転ずるの日なり、瑩山紹瑾禅師『洞谷記』古写本系統、訓読は拙僧これは、元亨4年(1324)に法堂に備える法座について、マサカリを入れ始めた日、ということである。つまり、瑩山禅師がご自身の「偃息の地」として定められた、能登永光寺の伽藍整備の過程を示されたものである。そして、同年4月8日に間に合わせて開堂説法を行われた。さて、上記一節で気になるのは、瑩山禅師がこの3月3日について、「仏、鹿野苑に在りて、...今日は上巳の節句(令和3年度版)
江戸時代の学僧・面山瑞方禅師が行った『六祖壇経』についての指摘を見ていきたい。六祖壇経に、無相三帰戒と云ことあり、次でに説べし。六祖大師初めて、南海より曹渓に至し時、国主韋璩と云人、大梵寺の講堂の中に請じて、衆の為に無相戒を授しめらる、無相戒とは大乗戒の名なり、その正伝の事は、壇経に七仏より六祖までの血脈を、自説せられ、この戒壇を執行せられしゆへに、六祖壇経とは云なり、伝灯録にも云く、「韶州刺史韋拠請し、大梵寺に於いて妙法輪を転じ、并びに無相心地戒を受く。門人紀録し目けて壇経と為し、盛んに世に行わる」。しかるを支那も日本も、禅家に大戒の授受を失却せしゆへに、壇経と云は、なにゆへの名と云ことを、壇経の注釈作るものもしらず、あまつさへ、後人改刻の壇経には、文句も作り直して、無相戒を除却せり、悲まざらんや、日本の寛永...『六祖壇経』と「無相戒」に関する一主張
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ここでは、「妖精」「妖精の森」「おとぎの國」についてのイメージを、共有し合います。どこかで見た絵夲やファンタジー小説、夢に出てきた世界など、何でも。 また、リアルに妖精の森のような未來を望む書き込みも大歓迎です。 但し、旧スピ的発想や、宗教の勧誘、政党政治の推進、メディアを鵜呑みにしたり恐怖を煽るような書き込みは、すべて却下します。
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