聖書に基づくイエス様の救いの証をお語り下さい。短くても結構です。
11月25日 逡巡しながら、新潟たれかつ丼を食すことなど。
11月24日 遅読、積読。本のある雰囲気だけで自分は変容する。(「買ったが読んでいない本」からのアピールについて)
11月23日 本と私。(死生観)
11月22日 脈が弱く血圧測れず。。!!! ユングとフロイトと性欲について。
11月21西 かぜのたみさんの低コストライフに学ぶ! 食べるものは大体決まってきた。
11月20日 ぶちきれオバハンに遭遇&げんなりのことなど。
11月19日 グノーシス主義、グノーシス思想のPOINT.
11月18日 (永世厨二病患者談義) グノーシス主義に想う。
11月17日 極悪女王のこと。妬みと嫉みと不倫たたき。
11月16日 古本購入。
11月14日 私に根付く差別意識はどんな感じだろう。美と差別は非常に難しい関係だな、と思う事など。
11月15日 孤独とコミュニケーション。
11月13日 本を購入。
11月12日 我が三上。特に”厠上”のこと。
「アリス・イン・ワンダーランド」(ディズニー実写版)
連載は6回目となる。『養老律令』に収録されている『僧尼令』の本文を見ているが、『僧尼令』は全27条あって、1条ごとに見ていくこととした。まずは、訓読文を挙げて、その後に拙僧なりの解説を付してみたい。なお、釈雲照補注『僧尼令』も参考にすることとしたい。凡そ僧は、近親郷里に、信心の童子を取りて、供侍することを聴せ。年十七に至りなば、各本色に還せ。其れ尼は、婦女の情に願はむ者を取れ。『日本思想大系3』217頁を参照して、訓読は拙僧条文名は、タイトルの通りで、「取童子条」となっていて、一見すると何やら「児童誘拐」的な危険な行為のように思えるかもしれないが、勿論そんな話ではない。要するに、僧侶が自分の身の回りを世話してくれる童子・沙弥などを雇う場合の条件や方法を示したのである。なお、「僧尼令」を補う諸式(式は、律令に対す...第六条・取童子条(『僧尼令』を学ぶ・6)
ここ1年以上にわたって、最後の一章「雑」を採り上げています。本章は「雑」の字の通りで、他に一章を立てるほどが無い程度の内容でもって、様々な事柄を富永仲基が論じたものです。本当に種々雑多な内容ですが、見ていると20前後の節に分けられそうなので、一つ一つ見ていきたいと思います。中含の福田経に、有学・無学の目、家家の一種及び下向得、皆な各各、階級を異にす。婆沙・倶舎等、皆な之を混ず。亦た諸部の異言、固より怪むにも足らず。然らば是れ同一の小乗、而も其の言、然り。学者、多く是に至りて而も窮す。岩波書店『日本思想大系43』102頁を参照して拙僧が訓読したよくよく読んでみたら、今回採り上げる3節は、それぞれ内容を異としているようなので、別々に見ていきます。そこで、上記の一節ですが、まず『中阿含経』巻30「福田経」の話をしてい...雑第二十五其14(富永仲基『出定後語』を学ぶ41)
江戸時代の曹洞宗の学僧である指月慧印禅師が著した『荒田随筆』を学んでいく連載記事である。徐々に各論に入っているけれども、今回は「三乗」と題される一章の5回目となる。彼の月を標すの指、海を截の筏も、豈に夫れ舎なる諸(や)。指、実に指ならば、指、已に指なり。則ち豈に月に非ずや。指を知るは、指、則ち月を茲に見るなり。既に指を見ざる、指外をも取ること莫れ。触目道を会せば、牛に騎りて牛を得たり。若し爾らば、其れ月を見て指を忘ずれば、何の謂ぞ諸(や)。曰く、指を忘ずるは則ち其の月を忘ず。若し月を忘れざれば、繋駒伏鼠なり。故に見者をして両つながら忘じて無何に入らしむ。夫れ指と月とは、道を見るの諭なり。若し指を認じて月を見ること無くば、影を逐うて形を忘ずるなり。指を舎て月を認む。物を離れて己に迷う。皆、自他共等の性を免れず。若...三乗(其の五)(指月慧印禅師『荒田随筆』参究16)
一部の人には良く知られた説話であるが、最近の拙ブログでは僧侶の持戒と破戒について扱うので、その観点からとりあえず、以下の一節を見ておきたい。六十七永超僧都魚食事これも今は昔、南京の永超僧都は、魚なきかぎりは、時・非時もすべて食はざりける人なり。公請つとめて在京の間、久しくなりて、魚を食はでくづほれて下る間、奈島の丈六堂の辺にて、昼破子食ふに、弟子一人近辺の在家にて、魚を乞ひてすすめたりけり。件の魚の主、後には夢に見るやう、恐ろしげなる者ども、その辺の在家をしるしけるに、我家をしるし除きければ、尋ぬるところに、使のいはく、「永超僧都に贄奉る所なり。さてしるし除く」と言ふ。その年、この村の在家、ことごとく疫をして死ぬる者多かり。この魚の主が家ただ一宇、その事を免る。よりて、僧都のもとへ参りむかひて、このよしを申。僧...『宇治拾遺物語』に於ける「永超僧都魚食事」について
だいぶ前になるのだが、【江戸期日本仏教の学問奨励とは何だったのか?】という記事を書いたことがあった。概要を申し上げれば、江戸時代の仏教界には、幕府からの学問奨励があったということになっているが、拙僧なりに調べた限り、該当する幕府の法度条文は良く分からない、という結論が出た、という記事であった。一応、拙僧自身納得が出来なかったので、その後も細々と調べていたのだが、少しく思うところがあったのでそれを記事にしてみたい。参照したのは前回と同じく梅田義彦氏『改訂増補日本宗教制度史』「近世篇」(東宣出版・1972年)である。それで、拙僧はずっと、幕府から出された法度の条文のみを見ていたのだが、梅田氏前掲同著には、各藩から出された法度・掟なども記載されていることに気付いた。何となく見ていたのだが、長門国萩藩の条文に以下の一節...続・江戸期日本仏教の学問奨励とは何だったのか?
昨年度、授戒会に於ける「説戒」について小論を書いた時に、色々と分からないことも出て来た。それで、この記事はあくまでも試論程度だが、拙僧の中の考えをまとめるために書いておきたいと思うものである。取り上げる課題は、タイトルの通りで、宗門授戒会に於ける「説戒」と「完戒(上堂)」の関係についてである。簡単な経緯のみ書いておきたい。まず、現行の宗門授戒会(例えば、七日加行、正授道場の四衆登壇・血脈授与など含む)については、その成立経緯はよく分かっていない。ただ、状況証拠から、加賀大乗寺26世・月舟宗胡禅師が「禅戒会」を興したことがほぼ確実、というくらいである。流石に弟子等が挙って同じように言っているので、月舟禅師が興したのだろう。ところが、悩ましいのは、月舟禅師が行っていた「禅戒会」の詳細が知られないわけである。理由は簡...授戒会に於ける「説戒」と「完戒」の関係について
以前【江戸時代の入叢林に関する雑考】という記事で採り上げた、江戸時代中期の洞門学僧・日輪当午禅師(?~1789)には『長慶開山日輪当午禅師示衆』という語録が、『続曹洞宗全書』「法語」巻に収録されているのだが、何故かそれに、今回採り上げる寂室堅光禅師(1753~1830)の『告報』が収録されている。『曹洞宗全書』「解題」巻を参照してみたのだが、簡単に「明らかに後代のものである」と一言指摘されるのみで、収録経緯などは分からないようだ。底本は駒澤大学図書館で収蔵している文化5年の写本らしいので、結局はその写本の書写者が、あちこちから文章を集めてきた、ということなのだろう。拙僧の手元にも、江戸時代後期の類本は数本ある。でも、一箇の新出法語だけで貴重なのであれば、やっぱり資料として取っておかないとダメだろうな・・・いや、...寂室堅光禅師『告報』参究(1)
今日6月21日は「夏至」である。いうまでもなく、一年の中で昼の時間が最も長い日である。現代はだいたいこの6月下旬くらいに「夏至」になるものだが、かつては5月中旬であった。○夏至は五月の中也、陰気はじめて地にくだる日なり。三田村鳶魚編『江戸年中行事』中公文庫・昭和56年、41頁以上の通りである。「陰気」云々については、いわゆる「陰陽」の考え方に則って、夏の暑い様子を「陽」、冬の寒い様子を「陰」とし、昨年の冬至以降、徐々に「陽」が増えて、その最大が「夏至」になるわけだが、「夏至」を過ぎれば今度は冬至に向かって「陰」が増えていくわけで、その最初の様子を「はじめて地にくだる」と、かつてのカレンダーには書いてあったわけである。それで、この辺の陰陽の動きなどを踏まえて見てみると理解出来る禅問答があるので、見ておきたい。問う...「夏至の日」と禅問答
自分自身が論文を書くとき、色々なものを読むのだが、いざ書くとなると、拙僧自身が理解出来ていなかったり、その文脈が成立した理由が分からなかったりすると、関連部分を全部書かないということがある。これはもう、前からそうなので、自分自身では中途半端だと思うし、多分、本当の意味での研究者ではないからなのだと思う。拙僧自身は、研究者というよりもキュレーターなんだろうと思っている。昨年度も、宗門の授戒会について書いていた時、大本山永平寺40世・大虚喝玄禅師(?~1736)と面山瑞方禅師との関わりについて検討した。ただし、その始終が理解出来なかったので、書けなかった。とはいえ、今後、授戒会に於ける伝戒式挿入の可否を扱いたいと思っているので、その時までには理解したいと思っている。今日の記事も拙僧自身の理解を促すことを目的にしたよ...面山瑞方禅師『傘松日記』に見える禅戒思想(1)
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。其九霊山谷霊山は院の名。寺の西北、一箭道可りに在り。昔、吾が祖、席を弉祖に譲るの後、此の院に歇息して、洛に赴く。院、此の谷に在り、故に名づく。面山瑞方禅師『吉祥草』貝葉書院新鏤本・8丁裏~9丁表、原典に従って訓読は拙僧以上の通りである。この霊山院という寺だが、今も永平寺町内にあり、「永平寺参道IC」から永平寺方面に入っていくと、永平寺の手前2キロくらいで左折したところにある。それで、この一節をどう読むべきかなのだが、まず、道元禅師が懐奘禅師に永平寺の後席を譲った件について、最古の『三大尊行状記』では、「道元禅師章」には書かれていないが「懐奘禅師章」には、以下のようにある。建長五年癸丑七月十四日、即ち住持の位に著く。夜間の小参、早朝の上堂、元和尚、病床なりと雖も、輿に乗り...道元禅師の隠居所の話
以前にアップした【鎌倉時代の禅僧達に於ける出家受具への雑考】の一変形のような記事である。要するに、中国で編まれた禅宗灯史文献である『景徳伝灯録』(道原編、1004年に上奏)には、10世紀後半くらいまでの僧侶の伝記が約1,000人分収録されている。その中から、いわゆる「出家受具」の話を見ながら、禅僧(元々禅宗とは限らないが)が受けていた僧侶教育について見ていきたいと思う。即ち洛陽龍門香山に抵して、宝静禅師に依りて出家受具す。「太祖慧可禅師」章後に達磨大師から法を嗣いだとされる中国禅宗二祖・太祖慧可禅師(478~593)の伝記として、宝静禅師という人の下で出家し、具足戒を受けたという。大師深く之を器とし、即ち為に剃髪して云く、是れ吾が宝なり。宜しく僧璨と名づくべし。其の年、三月十八日に光福寺に於いて受具す。同上これ...『景徳伝灯録』に於ける出家受具への雑考(1)
出家受具というのは、出家して、具足戒を受けたことを意味し、いわゆる比丘(沙弥ではなくて)になったことを指す言葉なのだが、日本の場合、奈良時代中期に鑑真和上が来日して構築しようとした東大寺戒壇体制(学術用語でこの辺どう表現しているのか?拙僧の勉強不足で分からない)が、和上入滅後100年くらいで崩壊したとされ、その後はまぁ、当初の状況が中々確立出来ないまま、何となく現代まで来ている印象だ。あれ?話が別の方に行ったが、今日の記事は鎌倉時代の禅僧達の出家・受戒に関する伝承を見ていこうという話である。とはいえ、万事に雑な拙僧なので、とりあえず目についたところだけではある(『続群書類従』第9輯を参照した)。承元元年丁卯師、歳十三にして薙髪、専ら天台大教を以て教え・・・四年庚午師、歳十六、入壇して大僧と為り、密観定慧悉く具足...鎌倉時代の禅僧達に於ける出家受具への雑考
以前から、以下の一節についても参究しなければならないと思っていたが、「身心学道」巻というのは、道元禅師の『正法眼蔵』でも難しい方に入ると思ってしまっていて、大学院の時に、拙僧を指導してくれていた先生が一緒に読んだくれたのだけれども、その時には今一つ理解出来ていなかった感じがする。とはいえ、拙僧自身も本巻を他の人の前で解説したことがあるし、現代語訳的には理解していると思うのだが、宗旨としてどうも腹落ちしていない感じがしているのである。おそらくは、本巻に於ける「身」と「心」の関係性について、拙僧自身が余り上手く理解出来ていないためであると思う。他の巻などとは少し違う説相をしている印象を得てしまっているのである。さておき、その理解に至るための手がかりとして、同巻に於ける戒思想といえば、以下の一節が良く知られている。身...『正法眼蔵』「身心学道」巻における戒思想について
以前、【伝教大師最澄による声聞戒の棄捨について】という記事を書いたことがあるのだが、今回はその続きである。拙僧自身、どうしても伝教大師最澄による「声聞戒の棄捨」が本当に行われたことであるのか納得出来ない部分があるので、それで記事にしたいのである。前回では、『叡山大師伝』を元に考察したのだが、更に色々と調べてみると、同伝が参照した典拠があるようなので、それを評価してみたい。『伝教大師全集』を見てみると、『請立大乗戒表』の「別伝」に、以下のようにある。大師伝文別伝に曰く、自今以後、声聞の利益を受けず、永く小乗の威儀に乖く。即ち自ら誓願して二百五十戒を棄捨し已んぬ。又た告げて言く、南嶽・天台の両大師、昔、霊山に於いて親しく法華經を聞き、兼ねて菩薩三聚戒を受く。師師相授する所以なり。智者、灌頂に授く。灌頂、智威に授く。...伝教大師最澄による声聞戒の棄捨について(2)
おそらく日本史を習った人であれば、織田信長が日本でのキリスト教宣教を広く認めつつも、その後継者となった豊臣秀吉が実質的に否定し、その後、徳川幕府に至って全面的に禁教扱いになったことを知っていると思う。なお、以前、拙僧はこの辺をただ日本のこととしてのみ教えていたのだが、荒野泰典先生『「鎖国」を見直す』(岩波現代文庫・2019年)を見ていると、16世紀中期以降にアジア全体にキリスト教の宣教が始まるが、その後は各地・各国でキリスト教への弾圧や禁教が始まるのである。荒野先生の前掲同著に於ける「前近代のアジア諸地域・諸国とキリスト教」(22~23頁)という図表を参照すると、日本では1549年に伝来したキリスト教に対し、1587年には布教禁止が通知され、対応が早かったことが分かるが、ベトナムでも1645年には弾圧され、中国...豊臣秀吉『天正十五年六月十八日付覚』に見る「信教の自由」論
全国的に梅雨に入ってきた。そして、こういう時だからこそ、学んでおきたい教えもある。今日見ていくのは、道元禅師がまだ、宇治興聖寺におられた頃の説法である。上堂に、挙す。鏡清、僧に問う、「門外什麼声」。僧云く、「雨滴声」。清云く、「衆生顛倒、己に迷うて物を逐う」。僧云く、「和尚、作麼生」。清云く、「洎不迷己」。僧云く、「洎不迷己、意旨、如何」。清云く、「出身は尤も易かるべし。脱体の道、応に難かるべし」。師云く、脱体より已来、雨滴声、出身の門外、什麼の声ぞ、迷己不迷己。難易一任你、物を逐い及び己を逐う、顛倒、未だ顛倒せず。『永平広録』巻1-39上堂これは、中国禅宗・鏡清道怤(868~937、雪峰義存の資)と門下の一僧による問答である。一般的には「鏡清雨滴声」という名前で呼ばれていると思う。それで、典拠を一字一句のレベ...道元禅師の雨の説法
ちょっとした備忘録的な記事である。現在の施食会で唱えられるのは『甘露門』であり、江戸時代の学僧・面山瑞方禅師が編まれた文献なのだが、拙僧的に気になっている作法が「五如来焼香」である。この「五如来焼香」であるが、以下のような『甘露門』の流れの中で行われている。・奉請三宝・招請発願・雲集鬼神招請陀羅尼・破地獄門開咽喉陀羅尼・無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼・蒙甘露法味陀羅尼・毘盧舎那一字心水輪観陀羅尼・五如来宝号招請陀羅尼←ここで両班が上位(施食棚に近い方)から東西1人ずつ焼香する・発菩提心陀羅尼・授菩薩三摩耶戒陀羅尼・大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼・諸仏光明真言灌頂陀羅尼(・撥遣解脱陀羅尼ほとんど唱えない)・回向偈←唱えないこともあるさて、それで、通例として「五如来焼香」と行うことになっていて、拙僧もこれまで、各地で随...洞門の施食会に於ける「五如来焼香」と「回向偈焼香」について
今日6月10日は「時の記念日」とされる。『日本書紀』「天智天皇十年四月辛卯」条に、日本で初めて「時の鐘」が打たれたことに由来するという。この時の時計は、「漏刻」といって、水時計であった。それから、先の天智天皇の事績の日付は、「天智天皇10年4月25日」なのだが、これをグレゴリオ暦に変換すると「671年6月10日」となるため、今日をもって、時の記念日としたとされる。拙僧は毎年、この日には道元禅師『正法眼蔵』「有時」巻を参究することにしているため、今日もそうしておきたい。改めて、冒頭の道元禅師の文章を見ておきたい。いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。「有時」巻これは、中国の禅語録で、「ある時」を意味する言葉として、「有時」とあるのだが、その言葉を提唱された部分である。道元禅師は、「ある時」を、「有」...6月10日「時の記念日」と『正法眼蔵』「有時」巻(令和2年度版)
『瑩山清規』は、曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師(1264~1325)が晩年に、ご自身が開かれた洞谷山永光寺(石川県羽咋市に所在)のための清規として編まれたものの、写本の様子からすれば、すぐに太祖に関わる各寺院に書写され伝播したようだ。それで、瑩山禅師はご自身、道元禅師が遷化されてから20年も経たない頃の永平寺に登られて出家、2祖・懐奘禅師に就いて修行されており、道元禅師が晩年に懐奘禅師とともに構築されたであろう永平寺の行持・作法・進退をよく伝えられた。それで、今日は以前から見ていて気になっていた一節を見ておきたい。(開堂・上堂終わって)次に云く、大衆を請す。仏殿に詣でて、燒香礼拝せん。鐘を鳴らして一衆、仏殿に詣づ。先ず主人、当面の香炉に焼香し、供具を弁ず、伝供如常。弁供の後、両班問訊して、左右に排立し、大同九拝す。...『瑩山清規』「釈尊降誕会」に於ける「出班焼香」の一考察
先日、【洞山良价禅師・曹山本寂禅師の「犯戒」について】という記事を書いた後で、拙僧個人としては、中国曹洞宗開祖・洞山良价禅師の法嗣である雲居道膺禅師の場合は、戒律などについてどう思っていたのか?を気にしていた。なお、現在の曹洞宗は、中国で有名だった曹山本寂禅師の系統ではなくて、その兄弟弟子である雲居道膺禅師に連なることも指摘しておきたい。なお、これは別に拙僧の発想ということではなくて、道元禅師が既に指摘しておられることだ。曹洞宗の称は、曹山を称じくわふるならん。もししかあらば、雲居・同安をもくわへのすべきなり。雲居は人中天上の導師なり、曹山よりも尊崇なり。『正法眼蔵』「仏道」巻要するに、曹洞宗という名称は、開祖である洞山良价禅師に、曹山本寂禅師の名前を加えたものであるが、道元禅師はそれを批判して、もし曹山禅師を...雲居道膺禅師に於ける罪過について
現代に至っても、未だに僧侶の持戒の有無を問う人がいる。まぁ、その本人が自分に問うのならば、まだ許そう。だが、それに、関係ない他の僧侶を巻き込むのは如何なものか?と本気で考えている。ということで、今回は「不持戒」ということについて考えてみたい。しるべし、剃髪染衣すれば、たとひ不持戒なれども、無上大涅槃の印のために印せらるるなり。ひと、これを悩乱すれば、三世諸仏の報身を壊するなり、逆罪とおなじかるべし。あきらかにしりぬ、出家の功徳、ただちに三世諸仏にちかしといふことを。『正法眼蔵』「出家功徳」巻道元禅師の主要著作に於いて、「不持戒」は同巻にのみ見える稀な表現である。そして、しっかりと読むと、この一節は結構、怖いことを仰っている。なお、この一節は、或る典拠に基づいて仰っていることである。仏言く、若し衆生有りて、我が出...道元禅師が示す「不持戒」ということ
現状の曹洞宗の受食作法に於ける「五観の偈」の成立については、直接には道元禅師『赴粥飯法』の影響であることは間違いないが、更にその原典にまで遡ると、色々と議論がある。まぁ、宋代の禅宗叢林で用いられていた『禅苑清規』であるとか、道元禅師も度々参照された南山道宣『四分律刪繁補闕行事鈔(以下、『行事鈔』と略記)』などの影響があるとは思うが、とりあえず以下の一節などを見ておきたい。受食五観は、もと律の明了論〈現行の明了論に五観のこと見へず、別本あるべし〉に出たると、太唐南山の道宣と云人、四分律の行事鈔といへる書を編し時、その中の対施興治篇と云に、引載。また観文を作りて、不受食戒の下に載られたり、そのゆへは、出家たらんもの、この観念をなさずして、施主の供養をなをざりに食せんは、無量の罪業の因縁たること諸経論に明拠あるを以て...南山道宣に於ける「観門五別」と「正食五観」について
現代では、各地の宗門寺院で毎年行われている行じ(恒規法要)で最も大きいのは、いわゆる「施食会」であろうと思う。ところが、この施食会について、曹洞宗では明治期の『洞上行持軌範』に於いて、明確に「盂蘭盆施食会」の形態を選んだ(本来、盂蘭盆会と施食会は、依拠する経典も異なり、別の思想体系を持つ法要である。ただし、「食供養」という一点でクロスするため、敢えて混同された)こともあり、東京都など一部地域では7月、全国の多くで8月に実施されていると聞くが、例年都内の7月は暑すぎるので、5月に日付を移動する場合もあるという。そうなると、今回の新型コロナ対策によって、施食会については中止や縮小、延期など様々な手段が採られたようだ。そのためか、拙Wikiの施食会関連の項目も、例年5月からしばらくの間フィーバー状態なのだが、今年は極...面山瑞方禅師『甘露門』「鑒戒」項について
以前、【禅林における知事の人数は?】や【両班と両序】で、禅林に於ける「知事」の成り立ちや数を採り上げたことはあったが、「頭首」については少し曖昧のままであった。そこで、今回は、「六頭首」に関する簡単な考察をしてみたい。まず、そもそも「頭首」については、以下のような説明を参照しておきたい。頭首とは謂わく、首座・書記・蔵主・知客・浴主なり。竝びに已前に同じく、知事の法に和会す。『禅苑清規』巻3「請頭首」項ここでは、五頭首が挙がっていることが分かる。ただし、実は「六頭首」であったはずなのである。同書には以下のような指摘もある。六頭首、告退す。「下頭首」項、『禅苑清規』巻5それで、これに該当するのは何か?と思っていると、江戸時代の臨済宗の学僧・無著道忠禅師が以下のように指摘していた。禅苑清規に首座・書状・蔵主・知客・庫...「六頭首」の一考察
後で説明するが、今日という日は「仏祖の光明」を学ぶ日にしておきたい。そこで、まずは以下の一節を読み解いてみよう。仏祖の光明に照臨せらるるといふは、この坐禅を功夫参究するなり。おろかなるともがらは、仏光明をあやまりて、日月の光明のごとく、珠火の光耀のごとくあらんする、とおもふ。日月光耀は、わづかに六道輪廻の業相なり、さらに仏光明に比すべからず。仏光明といふは、一句を受持聴聞し、一法を保任護持し、坐禅を単伝するなり。光明にてらさるるにおよばざれば、この保任なし、この信受なきなり。『正法眼蔵』「坐禅箴」巻これは、中国禅宗の南嶽懐譲禅師―馬祖道一禅師の師資による「磨甎作鏡話」に対する提唱の、末尾の部分である。道元禅師は「仏祖の光明」について、普遍的な事象だとして扱っている。「摩甎作鏡話」に対する道元禅師の解釈を踏まえな...仏祖の光明を学ぶ(令和2年度版)
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大本山總持寺を能登から鶴見に移転させた独住第4世・石川素童禅師については、特にご本山に晋住されてから、270回以上の授戒会戒師を勤められたが、その記録である『總持住山年譜』を見ると、授戒会の戒師については「授戒会御親化」とあるが、他の場合もあった。そこで、他の場合についてのみだが、以下に列挙してみた(なお、以下の資料は以前、拙僧が大本山總持寺機関誌『跳龍』に石川禅師のことで連載記事を持っていたときにまとめたものである)。なお、語句の表現は全て、原文通りであるため、いわゆる「因脈会」という用語がまだ使われていない様子なども見ていただきたい。内容は、年号・日付・寺院等名・地名・法会の内容、の順で掲載している。また、1行空いているのは、年数を変えるためである。1906年9月11日千葉県習志野町?追弔大法会御親修・三帰...「因脈会作法」考(6)
今日は6月1日である。だいたい、禅宗叢林の年分行持を見ていると、大概毎月1日(ただし、拙僧が扱うのは旧暦の資料が多いので、適宜脳内変換していただきたい)には何かある。それで6月の場合は何であったか?というと、以前も【禅宗修行道場の六月一日(平成28年度版)】などで書いたが、真夏にさしかかり、暑いと判断されたのか、「普請坐禅の放下(全員揃っての坐禅の休止)」になったのである。どうも、鎌倉時代に曹洞宗が伝来してからというもの、基本的に「坐禅の放下」に関する内容が重視されたのか、道元禅師や瑩山禅師の「6月1日の上堂」では、このことに触れることばかりが目立つ。しかし、臨済宗などにも目を向けると、「6月1日」とはもう一つ別の意味を持っている。それは、4月15日から7月15日まで行われる「夏安居」のちょうど真ん中に該当する...今日は六月初一で半夏節(令和2年度版)
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目に見えて分野として、スピリチュアル×心理学を使って、健康になって幸せを目指せます。
成功への極意を伝えます。たったひとつの考動力で0〜無限を生み出す秘密を伝授し 人生が好循環に回り、自分軸であなたがあなたらしく生きていけます。
ここでは、「妖精」「妖精の森」「おとぎの國」についてのイメージを、共有し合います。どこかで見た絵夲やファンタジー小説、夢に出てきた世界など、何でも。 また、リアルに妖精の森のような未來を望む書き込みも大歓迎です。 但し、旧スピ的発想や、宗教の勧誘、政党政治の推進、メディアを鵜呑みにしたり恐怖を煽るような書き込みは、すべて却下します。
アフリカ出身の夫と国際結婚し、その生活の中で体験したり学んだり考えたりしています
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「奇跡」を司るのが「神」 時間・空間・物質に「奇跡」が起きた。 生命は「奇跡」の連続 「大いなる意思」は「神の愛」 人間は皆、「神の子」です。