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宗教の記事

2020年09月 (51件〜100件)

  • #メッセージ
  • #日蓮大聖人仏法
  • 2020/09/06 11:10
    鈴木牧之『北越雪譜』に見る『血脈』の功徳について

    小学生の頃、『まんが日本の歴史』(どこの出版社だったかな?小学館だったかな?)の中に、鈴木牧之『北越雪譜』編集の逸話が記されていて、当然に知っていたし、気にもなっていたが、まさか拙僧自身の研究などに関わってくるとは思っていなかった。しかし、岩波文庫(黄本)で出ていることは知っていて、購入してみた。そこで、早速読んでいたところ、『血脈』の功徳について書かれていたので、それを採り上げたい。なお、著者の鈴木牧之の生没年は1770~1842年であるので、江戸時代中後期の人である。『北越雪譜』は1837~41年に刊行されるのだが、この刊行に至る過程というのが、一大物語なのである。江戸時代の各出版人同士の駆け引き、その間で翻弄される著者牧之という構図は中々に面白い。ただし、本書には曹洞宗を始めとする越後(現在の新潟県)の諸...鈴木牧之『北越雪譜』に見る『血脈』の功徳について

  • 2020/09/06 00:11
    メモ(人気のある妄説の根本原因)

    釈尊は、悟っていない人の世界を中心に法を説いた。 (無常・苦・無我・不浄)   大乗仏教は「悟った人」の世界を中心に法を説いた。 (常・楽・我・浄)    しかし釈尊はそうしなかった。  釈尊がそうしなかった場合、必ずそうしてはいけない理由がある。

  • 2020/09/05 23:54
    協力者って?

    幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。

  • 2020/09/05 09:50
    西田哲学から考える禅宗の軌範について

    これは、以前にアップした【叢林清規に於ける軌範性の源泉に関する一試論】の続編ではある。ただし、正規の(2)については別途記事を用意していて、今回のはスピンオフ的ではある。実は、先般刊行された田中裕氏編『西田幾多郎講演集』(岩波文庫)に収録された「歴史的身体」から、拙僧なりに「禅宗の軌範の源泉」について、この記事では論じてみたいと思っている。まず、「歴史的身体」から、拙僧がイメージを着想出来た一節を紹介しておきたい。先ず我々の現実の世界とはどういうものであるか。我々はこの世界に生れこの世界において働きまたこの世界において死んでゆく、また我々の後に子孫が生れてその世界において働きその世界において死んでゆくのである。世界は我々を生む世界である。それを簡単に言うと歴史的世界である。『西田幾多郎講演集』200頁この一節は...西田哲学から考える禅宗の軌範について

  • 2020/09/04 22:55
    魅力ある人生って?

    幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。

  • 2020/09/04 14:09
    死者に供養は届くのか?

    少し面白い文献を入手したので、それを見ながら記事を書いてみたい。翁の曰く、左程実体実性なき生滅去来ならば、引導諷経を用ひて何にかせん。予が曰く、汝即今の境界無自性にして、全く汝と名くべき主宰もなし。何としてか山僧に安心の法を問ふや。仏法は生前滅後同一般なるが故に滅後にも引導諷経を用ること、生前の説法の如し。翁の曰く、死人も会得するや。予が曰、会得すること汝即今山僧が説法を聞に同じ。翁の曰く、死人如何んしてか会得するや。予が曰く、死して断滅せざるが故也。翁の曰く、然らば霊前の供具、死人も応供するや。予が曰く、実に供に応ず。翁の曰く、死人如何んしてか応供するや。予が曰く、不生不滅なるが故也。翁の曰く、何としてか供具其侭残りて有や。予が曰く、汝眼を閉て供具の残りたるを見るや。翁の曰く、見ること無し。予が曰く、夫れ世界...死者に供養は届くのか?

  • 2020/09/04 08:59
    探検435 朱子学は日本版アーミッシュ?

    たまたまのこと「アーミッシュ」という言葉に出くわしたので、ちょいと調べてみると、ざっとこんな説明になっていました。~アメリカ合衆国、ペンシルバニア州などに住みむプロテスタント 教会の一派で、18世紀前半にヨーロッパからペンシルバニアに 入植後、中西部にも移

  • 2020/09/04 01:43
    一生赤ちゃんたちのまま

       澤木興道老師の言葉 「禅に聞け」櫛谷宗則編12(坐禅してもマシになったとは思えないあなたへ)より引用します。 坐禅が世の中にハヤラヌのは、あまりにも坐禅が高尚、幽遠すぎて、赤ちゃんたちには興味が持てぬからである。 (引用終) おれたち凡夫は、 気

  • 2020/09/03 09:42
    「長月」一考

    旧暦9月の別名を「長月」という。その由来について、以下のような説明が知られている。◎九月和名と長月と云は、夜やうやうながきゆへに夜長月といふ略せるよし、奥義抄にしるせり。「江府年行事」、三田村鳶魚編『江戸年中行事』中公文庫・昭和56年、50頁以上である。確かに、かつて夏至は旧暦5月であり、そこから4ヶ月が過ぎつつあるわけで、9月は夜の長さが理解される季節であったため、「夜長月」となり、そこから「長月」が生まれたとされている。ところで、「江府年行事」の作者は、その見解を『奥義抄』という文献から得たとしている。この『奥義抄(または、奥儀抄)』とは、平安時代後期の歌学書であり、藤原清輔の著であり。全3巻で、天治元年(1124)~天養元年(1144)の間に成立しており、崇徳天皇に献上されてから後も、増補されたという。ど...「長月」一考

  • 2020/09/03 00:20
    能率と経済を人生に適用する連中は浅薄蒙昧の輩

    YouTube映画を観る 『晩春』 昔レンタルDVDで観たが、YouTubeにアップされていたので、10年以上ぶりで観なおした。 初見は、話のテンポがあまりにも遅すぎるのに途中で退屈してDVD倍速で見飛ばした。特に印象も残ってない。 おれはその後10年のうちに心境が変化した

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  • 2020/09/02 08:50
    今日はくじの日(令和2年度版)

    今日9月2日は、「9(く)2(じ)」の語呂合わせで「くじの日」である。「くじ」というと、現代ではいわゆる「宝くじ」を思い付く人が多いと思うし、更に展開して、いわゆる「サッカーくじ」なども思い付かれるかと思う。それで、今日は禅宗の修行の中に、籤(くじ)を利用した例があることを見つけたので、それを紹介してみたいと思う。まずは、その本文から。南禅の規式、夏中、諷経に赴かざる者を罰する法に云く、籤に衆僧の双字名を書し、筒に実つ。毎日勤行の時、堂司行者、籤筒を仏前に置き、諷経し畢れば、住持、筒を指す。堂司行者、筒を取り振掉すること三たびし、而して住持の前に至る。維那、班を出でて、住持の右辺に至る。住持、籤を抽いて之を度す。維那、之を接し、書かるる所の名を呼ぶこと三度す。若し答うる者無くんば、則ち赴からざることを知る。乃ち...今日はくじの日(令和2年度版)

  • 2020/09/02 06:22
    The Little Big Things   Ephesians6:8

    元々、どのような文脈でこの言葉があったのかは不明だが、素敵な言葉を聴いた。トム・ピーターズが自身の著書で、マーティン・ルーサー・キング牧師のこんな言葉を紹介していたそうな。「もし道路掃除の仕事を与えられたら、ミケランジェロが絵を描くように、ベートーベンが曲を作るように、シェイクスピアが詩を書くように道路を掃除すべきだ。天国の主(神様)と地上の雇い主を『素晴らしい道路掃除人がいるな』と感心させるぐらいにしっかりとやるべきだ」…美しい比喩だ。該当しそうなみことば(聖書のことば)は色々と想起されるが、1つだけメモしておこう。『人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行えば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれの報(むく)いを主(しゅ:神様のこと)から受けることをあなたがたは知っています。...TheLittleBigThingsEphesians6:8

  • 2020/09/02 00:08
    人生に意味はない。…で、どうするの?

     過去くりかえし書いてきたことだが、人生に意味はない。 本当にそうだと解った人間は、悟るために修行する以外の道は最初からなかったと気づく。 しかし大多数の人間はこの事実に耐えられず、疲れ、押しつぶされそうになる。 法華経に「化城の喩え」があ

  • 2020/09/01 08:08
    禅宗叢林に於ける9月1日について

    毎年の記事で申し上げている通り、禅宗叢林、就中中世・近世の曹洞宗に於ける9月1日は、普請坐禅の再開日として知られている。これは、道元禅師の語録『永平広録』の中で示されることだが、6月1日から「版」を鳴らさないことで普請坐禅を中止し、その代わり随意坐禅を行っていたという。目的は酷暑を避けるためであり、よって、9月1日には再度「版」を鳴らし、坐禅の行持を復したのである。さて、この酷暑避けの坐禅法の軌範が明文化されたのは、瑩山紹瑾禅師の『瑩山清規』である。それは既に【今朝九月初一(令和元年度)】で書いたことなので、そちらをご一読いただきたいが、今回見ていくのは、近世への影響である。『瑩山清規』が中世曹洞宗の軌範だとすれば、時代が変わり近世になり、どう変容したかに興味があるのである。それで、既に前回の記事で述べた通り、...禅宗叢林に於ける9月1日について

  • 2020/09/01 00:11
    粥飯の熱気

     立派なことを言う奴のことを「あれは粥飯(しゅくはん)の熱気だ」と言うことがある。栄養が足ってエラソウなことが言えるという意味じゃ。 (澤木興道老師の言葉) ※【粥飯】 粥は朝食、飯は昼食のこと。  粥飯の熱気と無縁の言動を完璧に成したのは、古今東西、釈

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