聖書に基づくイエス様の救いの証をお語り下さい。短くても結構です。
至高体験・悟りを体験すれば自分が一人ではないことに気づく。常に魂がそばにいる。
「10億円手に入れても幸せになれない理由」
美しき夕べ
あなたは「愛とお金を受け取る価値がある存在」
「HSP」繊細な人たちの対処方法と「才能」
電車内の邪気を避ける「開運の秘訣」
「女性は幸せなイメージと感情で買い物をする」
「SNS疲れの脳内ストレスの原因と対策」
【一霊四魂】天才は歴史を変えない。自分の歴史を作るのは魂の力のみ。
高齢者とは
神様におまかせするのが一番いい
【スピリチュアル】最近のわたし
君は、生まれたくて来たんだよ
あなたの「これからの運命」を最高にする3つの条件
“目に見えないもの”に依存していない? “目に見えない世界”に逃げていない?
前回の記事から、「篤胤の天竺論」として論じている。篤胤は、仏教の開祖である釈迦牟尼仏が活動したインド(天竺)のことを明らかにすることで、日本との差異を示し、当然に、仏教について宗教としての日本での有効性を示そうとしていると推定される。よって、篤胤なりのインド分析が語られたのである。さて漢土などよりは、またひとかさ広ひ所で東西南北中と五つにわけて、これを五天竺といふ。それを又細かに分つている。采覧異言に引く万国伝信記事に云く、西はペルシヤに界ひ、北は韃靼に連り、東は支那に至り、南は印度海に臨りとござる。偖其風土のことは阿蘭陀の方でくわしく考へ、よく見極めたる天文地理の説によりて見ると、天の度数でちやうど赤道線と云て、日輪の御通なさる道に近く、已にかの国近くの島々には、赤道の直下にあたる島々もある程のこと故、大の熱...篤胤の天竺論(2)(拝啓平田篤胤先生6)
現在日本における禅宗は「曹洞宗」、「臨済宗」、「黄檗宗」の3つがあります。 その中で曹洞宗の「坐禅」は「面壁」をして行います。 また臨済宗と黄檗宗の「坐禅」は人と向かい合って「対座」形式で行われます。 今回、この記事では坐禅における「面壁」と「対座」、その形式の違いとは何なのか、その背景について分かりやすく簡単に述べていきたいと思います。 この記事を書いているのは こんにちは「harusuke」と申します。大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内でサラリーマンをしております。 坐禅の種類 別冊太陽「道元」P8より出典 臨済宗「正光寺」様HPより出典 「面壁」というのは左(上)の写真
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 今回は『普勧坐禅儀』本文の、 所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。 という部分を解説していきます。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑫我々の体とは?「薄皮一枚」で繋がる世界では、 少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。古聖(こしょう)、既に然り。今人(こんじん)盍(なん)ぞ辦ぜざる。 という部分を解説しました。 まずここで前回のポイントを簡単におさらいしましょう。
江戸時代の洞門が輩出した学僧・指月慧印禅師の主著である『荒田随筆』を学ぶ連載記事であるが、「諦縁度」と題された一章の、3回目の記事である。既に申し上げたことだが、これは四諦・十二縁起・六度(六波羅蜜)を論じるものとして、考えていただければと思う。若し四道通行覚分及び賢聖、学無学等の義分の如きは、論家常に説けり。上の如き苦集を世の因果と為し、道滅を出世の因果と為す。而して出世の道遠し。大に世の衆理情縁に闊れり。然ども其道の必実なるを聞て、内に厚く思ふ。思て其の外に修し及すときは、則ち又た遠からず。猶お寐て憂ひ寤て忘たるがごとし。蓋し、世の常とする所は寤ざるに在り。若し呼に為にあらずんば、則ち醒こと也た未だし。故に大覚之に教へて始に聞思修を以す。聞思修を以すとも、而して撿するに戒を以せざれば、往く所、逸して敗れ易し...諦縁度(其の三)(指月慧印禅師『荒田随筆』参究29)
連載は19回目となる。『養老律令』に収録されている『僧尼令』の本文を見ているが、『僧尼令』は全27条あって、1条ごとに見ていくこととした。まずは、訓読文を挙げて、その後に拙僧なりの解説を付してみたい。なお、『令義解』の江戸期版本(塙保己一校訂本・寛政12年[1800]刊行、全10巻で『僧尼令』は巻2に所収)も合わせて見ていきたい。凡そ僧尼、道路に於いて三位以上に遇はば、隠れよ。五位以上ならば、馬を斂へて相い揖して過ごせ。若し歩ならば、隠れよ。『令義解』11丁裏~12丁表を参照して、訓読は拙僧まず、ここでいわれている「三位」「五位」が分からないと、この条文がそもそも何のことを述べているのか、理解に苦しむことになろう。非常に分かりやすくいえば、いわゆる「律令制度」の中では、「五位」以上のことを貴族といったらしい。そ...第十九条・遇三位已上条(『僧尼令』を学ぶ・19)
ドイツ宗教改革の発端にもなったとされるマルティン・ルターの『九十五箇条の提題』の日本語訳を学んでいく連載記事である。連載24回目である。24以上のような理由から、多くの人が節操のない仕方で、荘厳であるだけの約束が与えられることで、罰から解放されているかのように騙されてしまっている。深井氏下掲同著・20頁ここ数回の記事で、ルターは煉獄に堕ちている魂の救済について、現世からの働きかけの限界を論じたわけだが、それらの記述を元に、「以上のような理由」としつつ、「多くの人が節操のない仕方」で、ただ「荘厳(=飾り)」であるだけの約束が与えられ、罰から解放されているように騙されているとするわけで、どうやら『贖宥状』への直接の批判だったということがいえよう。つまり、それまでのルターは、教皇の権能や、当時の教会の司祭などのあり方...マルティン・ルター『九十五箇条の提題』を学ぶ・24
北宋代を代表する詩人である蘇東坡居士(1037~1101)というと、例えば道元禅師の『正法眼蔵』「渓声山色」巻のタイトルは、居士の偈頌が元になっているので、親しんでおられる方もいると思う。渓声便ち是れ広長舌、山色清浄身に非ざること無し、夜来八万四千の偈、他日如何が人に挙似せん。「渓声山色」巻これは、中国臨済宗黄竜派の東林常総禅師(1025~1091)の下で悟道した時(『嘉泰普灯録』巻23では、無情説法話を呈されてのものだったとしている)に呈したものであり、まさに自然に於ける様々なはたらきが、仏法以外の何物でも無いことを示され、更にそれを東坡居士自身が深く味わっている様子を詠まれている。元々東坡居士自身は、時代に流されない優れた詩作を行った人とされ、道元禅師も「大宋国に東坡居士蘇軾とてありしは、字は子瞻といふ。筆...蘇東坡居士の漢詩に見る叢林修行について
布薩というのは、在家信者も行うものなのだろうか?とりあえず、以下の一節を見ておきたい。在家の布薩は、或いは五戒、八戒、或いは云わく菩薩戒なり。其の文、已に亡われ、尋ぬべからず〈或いは云く、即浄住子二十巻なり〉。霊芝元照『四分律行事鈔資持記』巻上四「釈説戒篇」霊芝元照(1048~1116)による、この文章を素直に見ておくと、在家の布薩というのは、戒本が五戒である場合、八斎戒である場合、或いは菩薩戒である場合があったとしつつ、その文は既に失われており、探すことが出来ないとしているのである。浄住子というのは、「南斉蕭子良、浄住子二十巻を撰す」(『釈門自鏡録』巻上)という記述もある通りで、中国で著された文献である。それで、そちらに在家の布薩が書いてあるのだろうか?ちょっとよく分からない。それで、この一節によれば、元照は...在家の布薩とは?
この辺、拙僧自身、論文で書いたことがあったが、なるほど、既に先達が仰っていたわけだ。山僧若州の空印に住し、六七年の間、今迄の規矩を行に、永平瑩山の清規に乖ことををし、これ明様の禅堂ゆへと思て、古時の僧堂に翻修し、日分行法を述し行ふに、進退みな度に合す、しかれども新掛搭の僧は、今までを誤としらず、却て古規を新しきことに思ふもあるゆへに、改革せる本意をしらせたく、諸規矩の考訂を説く、面山瑞方禅師『洞上僧堂清規考訂別録』巻1「僧堂日分行法次第考訂」、カナをかなにするなど見易く改める以前、或る方と、僧堂の行持のあり方について雑談していたときに、現代でも復古としてかつての行持・作法に戻してしまうと、現代の作法に詳しい人こそ、初めての作法に見えるかもしれない、等と話したことがあった。そうしたら、同じことを江戸時代の面山瑞方...面山瑞方禅師が示す「古規復古」への注意点
とりあえず、以下の一節を見ておきたい。清規を行ふに、たとひ清規にありとも、その寺にて無用のことは減ず、またその寺にあり来る恒規にて、清規にたがふもあるべし、それを掛搭僧の中に、この寺にて是事はなぜに行なわぬ、此ことはわきになき勤めじや、などと評判する擔板漢は、一向の蒙昧なり、強く評せば、山門の妨げになる、返錫せしむべし、面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』巻5「僧堂新到須知」、カナをかなにするなど見易く改めるこの教えについては、余程注意が必要である。ただし、本来、清規については「海曰く、「吾れ大小乗の中に於いて、博約折中して規を設けて務めて善に帰する」と」(『宋高僧伝』巻10「習禅篇三之三」、「唐新呉百丈山懐海伝」)という、百丈懐海禅師の指摘もある通りで、博約折中的な態度が尊重されていたことも事実である。その上で...清規に於ける随方毘尼の一様相
今日、7月23日は「スポーツの日」であり、「東京2020オリンピック」の開幕式が執り行われる。既に一部競技は始まっているが、今日から8月8日までの熱戦を期待したい。ところで、これは良く知られていることであろうが、何故オリンピックは「五輪」と呼ばれるのだろうか?そもそも、「オリンピック」の語源については、古代ギリシャのスポーツの祭典が行われた「オリンピア」に因むものというのは、広く人口に膾炙していると思うが、そこから「五輪」表記に到るのは、大分遠い感じがする。そこで、以下のサイトが参考になる。・「オリンピック」を「五輪」と表記したのは誰?(日経電子版ことばオンライン、2012/7/24)上記記事によれば、まず、オリンピックのシンボルマークは、近代五輪の祖・クーベルタン男爵(フランス、1863~1937)によって考...「五輪」の話(令和3年度スポーツの日)
今日7月22日は海の日である。本来というか、例年であれば、7月第3週の月曜日なので、19日になるはずであったが、今年は、明日が東京2020オリンピックの開会式があるということで、それに因んでここ数日休日が続くことになったのである。場合によっては、4連休ということか。拙僧は仕事先の関係で、通常の土日のみ休みではあるが・・・さておき、今日は海の日ということで、海に因んだ仏祖の教えを見ていきたいと思うのだが、道元禅師の『典座教訓』には、海を喩えに用いた垂示が、複数あるので、それを見ておきたいと思う。なお、『典座教訓』という文献は、嘉禎3年(1237)春に京都興聖寺で書かれた文献で、修行僧の斎粥(昼食・朝食)を調える衆僧を司る者(典座)の心得を教示したものである。有名な「船中問答」「椎茸典座」の話は本編にある。道元禅師...今日は海の日(令和3年度版)
今回は、宏知正覚(わんししょうかく)禅師についてご紹介させてください。 「宏知正覚禅師」は道元禅師が非常に尊敬しておられた祖師であります。 宏知正覚禅師は1091年にお生まれになられた隰州(しつしゅう)、現在の山西省出身の中国の宋時代の禅僧です。 多くの優秀な弟子を輩出し、当時「黙照禅」という現在の曹洞宗の坐禅の大元となるものを、正当な「禅」と主張され、また同時に多くの詩ものこされた方です。 臨済宗の属した「大慧宗杲(だいえそうこう)」というこちらも有名な人物ですが、その大慧宗杲と真の禅法をめぐって激しく対立しました。 今回その大慧宗杲とのやりとりを取り上げ、宏知正覚禅師という人物像に迫るとと
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑪お釈迦様が言われた「天上天下唯我独尊」の本当の意味とは?では、 『普勧坐禅儀』本文の、 矧(いわ)んや彼(か)の祇薗(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。 という部分に触れ、 お釈迦様がお生まれになってすぐにおっしゃった 天上天下唯我独尊 という仏教において非常に有名なポイントを重点的に解説してきました。 この「天上天下唯我独尊」という言葉からも分かるように、我々人間は生まれながらにこの尊い体、この尊い命を頂いております。 悩めるのもこの「命」があ
仏教には、「捨戒」という作法が存在する。それは、自ら望んで受けた戒を捨てることを意味する。僧侶であれば還俗を意味することだが、その作法について、以下の記述を見出したので学んでみたい。捨戒事、不還戒して犯之為罪、棄戒は還戒して犯之無咎、受けたる師の程なる僧に逢て還之、受たる師よりも劣なる僧に逢ては不被還也。『梵網経略抄』、『曹洞宗全書』「注解二」巻・624頁下段まず、上記一節が何をいっているのかを確認したい。ここでは、捨戒のことを述べているのだが、具体的には「還戒」についても指摘されている。これは、戒を受けた人に還すことをいい、またを「棄戒」ともいう。それで、経豪禅師は戒を還してしまった後であれば、特定の戒を犯しても咎は無いとしている。そして、還す際には、自分が受けた師くらいの境涯を持った僧に還すべきで、もし、戒...『梵網経略抄』に見える「捨戒」について
あっという間に、「裏盆」となってしまった。まぁ、ちょっとした備忘録である。いわゆる律典であれば、当然に自恣作法の詳細が記載されているが、菩薩戒関係の文献には見たことがない。もちろん、拙僧自身の勉強不足が原因だと思うが、見たことがないものはない。それで、何故、自恣関係の資料がないのか、そのことも検討してみようと思う。そもそも、「自恣」というのは、以下のような定義であると思われる。自恣とは、自己の過、恣ままに他の挙する所なり。圭峰宗密『盂蘭盆経疏』巻下つまり、他の僧から、自分の過ちを好きに言ってもらい、そして反省するということになるのだが、近代以降の研究成果を見てみると「自恣」と訳された用語の原意は「満足」らしく、そのため、「自恣」もその意味で解するようである。なお、実際に行うことは、比丘同士が自らの罪を確認し合い...令和3年度裏盆の記事(2・菩薩戒と自恣の関係)
「裏盆」を過ぎてしまった。「裏盆」の適用日が16日のみという説もあるようなので、まぁ、今日は単純に盂蘭盆会の後という感じである。それで今日のは、【令和3年度盂蘭盆会の記事(2)】で引用した、大内青巒居士の『釈門事物紀原』に収録されている「盂蘭盆会」の記事の続きである。○我国にては斉明天皇三年〈我紀元一千百九十八年〉七月十五日須弥山の形を飛鳥寺の西に作り且つ盂蘭盆会を設けたるよし続日本紀に見えたるを始となすべし、其後聖武天皇の天平五年〈紀元一千三百九十三年〉七月盂蘭盆供を宮中に置き立て常式となし且つ天下一般に令して七月十五日の盂蘭盆供と行なはしめられたり大内青巒居士『釈門事物紀原』鴻盟社・1883年、下巻18丁表このように、だいたい日本に於ける盂蘭盆会の紀元などを見る時には、『日本書紀』と『続日本紀』を見るように...令和3年度裏盆の記事(1)
毎年、この日にはこの記事を採り上げているのだが、理由は以下の一節に由来する。師、寛元二年甲辰七月十八日に当山に徙る。明年乙巳、四方の学侶、座下に雲集す。『永平広録』巻2冒頭このように、道元禅師はそれまでに滞在されていた吉峰寺や禅師峰ではなくて、或る程度工事が終わった大仏寺(後の永平寺)へと移動されたのであった。なお、この1年前に越前に来たばかりではあったが、滞在されている間に工事が進んだわけである。そして、ここから更に工事が進められ、翌年の4月の安居結制に於いて、各地の学人が大仏寺に集まり、受け容れた様子が理解できよう。ところで、この内容について、道元禅師に係る最古の伝記では、以下のように示す。寛元二年甲辰七月、吉祥山永平寺を草創す。土木未だ備わらず、堂閣僅かに両・三なるのみ。然而、深山幽谷を以て占めて以て一生...7月18日道元禅師が大仏寺へと移動
7月17日は天童如浄禅師忌である。例えば、以下の一節が知られている。七月十七日は、天童忌なり。塔頭にて諷経有るべし。『瑩山清規』巻上「年中行事」それで、以前、如浄禅師は紹定元年(1228)に御遷化されたとされていたが、近年では宝慶3年(1227)であるとされるようになった。それから、如浄禅師には遺偈が残されていて、偈中には「六十六年」とあるため、生没年は1162~1227年となっている。道元禅師は如浄禅師の法嗣として、特に永平寺(当初は大仏寺)に入られてからは、毎年のように追悼の上堂をされていたことも知られている。天童和尚忌辰の上堂。天童、今日、翻巾斗、蹈倒す、驢胎と馬胎と。狼籍一場、桶底脱、洞宗、祖師に託し来ること有り。『永平広録』巻4-276上堂「忌辰」というのは、いわゆる「忌日」と同じことである(辰は「時...7月17日天童如浄禅師忌(令和3年度版)
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきたいと思います。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑧「今、ここ、この命。」落ち込んだ時こそありがたい。では、 『普勧坐禅儀』本文の、 「然(しか)れども、毫釐(ごうり)も差(しゃ)有れば、天地懸(はるか)に隔り、違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然として心(しん)を(の)失す。」 という部分に触れて、 前回のポイント 我々の命は今立ちどころに仏の命を生きている寸分の狂いで、行き着く場所は天と地をほど違ってしまうのが我々の行い「思う」という行為は自分がやっていることではない本来の「命」からしてみれば「悟る」というのは余
今回は曹洞宗の開祖でもある「洞山良价(とうざんりょうかい)」というお方によってよまれた「宝鏡三昧(ほうきょうざんまい)」というお経の、生まれたその経緯を解説いたします。 この記事を書いているのは こんにちは「harusuke」と申します。大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内でサラリーマンをしております。 「宝鏡三昧」とは? 宝鏡三昧① 宝鏡三昧② 宝鏡三昧③ 宝鏡三昧④ 宝鏡三昧⑤ 宝鏡三昧(ほうきょうざんまい)は、曹洞宗の開祖とも言われる「洞山良价(とうざんりょうかい)」によって作成されたする中国の「漢詩」です。 いわば「歌」ですね。 「宝鏡」とは「至上の明鏡」という意味です
この記事では「即心即仏(そくしんそくぶつ)」とは何かについていくつかの章にわけて解説していきます。 大変奥の深いワード、「即心即仏(そくしんそくぶつ)」。 早速、読み進めてみましょう。 この記事を書いているのは こんにちは「harusuke」と申します。大学卒業後、禅の修行道場で修行経験を積み、現在は都内でサラリーマンをしております。 北海道を開拓した屯田兵 冒頭から余談をさせていただきます。 1800年後半から「北海道」の地に「屯田兵」が導入されました。 明治維新から間もなくの事です。 屯田兵とは 明治維新後、旧幕府側の武士たちは、禄を奪われ窮乏しました。屯田兵とは、そのような士族の救済と北
「だ~る~ま~さ~ん~が~こ~ろ~ん~だ!!」 現在の我々にも馴染みの深い「だるまさん」。 本記事ではインドで王族としてお生まれになり、その後中国に「真実の仏法」をお伝えになった「菩提達磨(ぼだいだるま」様の生涯について触れていきます。 達磨様は中国に渡ってすぐ、当時中国で権力を奮っていた「梁の武帝」と問答をし、「真の仏法とは無功徳である」と言われました。 一体そこで「無功徳」とおっしゃた意味は何だったのでしょうか? 本記事では達磨様のお示しになった有名な「廓然無聖(かくねんむしょう)」についても触れております。 またその後「少林寺」にはいり、「面壁(めんぺき)九年の坐禅」を実践された達磨様。
本記事では道元禅師がしるされた『普勧坐禅儀』について学んでいきます。 前回の道元禅師の「普勧坐禅儀」について学ぶ⑩お釈迦様と同じ命を我々は生きている。では、 『普勧坐禅儀』本文の、 矧(いわ)んや彼(か)の祇薗(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。 という部分に触れて、 前回のポイント 「祇園」とはお釈迦様の事を指す。お釈迦様を始め、我々人間はこの仏の体をもってして生まれながらに悟っている。お釈迦様の生涯を参考にはしてほしいいが、自分たちも何一つ無駄にならない一瞬一瞬を生きている。 以上の点をお伝えしました。 今回は前回の復習を皮切りに、お釈迦様がお生まれにな
以前から、【寛元元年七月十六日道元禅師が越前に移動開始】という記事などを通して、道元禅師がそれまで約10年おられた京都深草の興聖寺から、越前への移転を開始したのが、寛元元年7月16日であると紹介している。寛元元年癸卯〈二月十六日改暦す〉この年七月十六日の比、京を御立あるかと覚ふ、同月末に、志比荘へ下著あると見へたり、正法眼蔵三十二巻の奥書に、寛元元年閏七月初一日、在越宇吉峯頭示衆と云り七月十六日深草を発出し、越に著して、最初は吉峯に住せられて、閏七月初一日に、開示始まれり、『建撕記』、『曹洞宗全書』「史伝(下)」巻・28頁下段、カナをかなにするなど見易く改めるこの『建撕記』については、既に何度も拙ブログで申し上げている通り、永平寺14世・建撕禅師がまとめられた道元禅師伝であり、15世紀中頃までに成立したと考えら...7月16日道元禅師が越前国への移転を開始
ヴァロアの聖フェリクス証聖者 St. Felix de Valois
聖母マリアの奉献 Praesentatio B. Mariae Virg.
トランプの当選後、ビットコイン価格が急騰(CNN 他)
【バチカンの狂気】 ジェイソン・モーガン
聖人はどのようにして天国に昇られたか
パリャラーニ神父:ティシエ・ド・マルレ司教の葬儀での説教
791『僕たちのアナ・バナナ』→E・ノートンの監督デビュー作
教皇「イスラエルの作戦は非道徳的」(ロイター/AFP/時事 等)
聖ルカ福音史家 St. Lucas Evang.
祈りと読書の優先順位 セビリアの聖イシドロ
巨匠との食事会(ダイエット中)
聖なる社と愚者の夫
大天使聖ミカエルの祝日の説教、二本が公開されています。
【お知らせ】聖ピオ十世会日本の公式ウェブサイトが誕生しました
聖ピオ十世会の神学校に行けといってくださった恩人司祭ヨゼフ・マリ・ジャック神父様の思い出
「自恣」について、少し考えてみたい。何故ならば、【以前の記事】の記事でも申し上げた通りで、本来の盂蘭盆会は安居に於ける自恣を終えた僧衆に対する供養をもって、先祖の供養を行う儀礼だからである。そして、自恣は安居の解制に伴って行われることを考えると、安居の修行を熱心に弟子たちと行われていた道元禅師に、関連する言及がないはずがない、と思っている。ただし、道元禅師は明らかに菩薩戒を重視されるので、菩薩戒に於ける自恣の意味も含めて、慎重に捉える必要はある。なお、以下の上堂は、【今日は7月15日旧暦なら解夏の日】でも引用しているので、解釈自体はその記事をご覧いただきたい。解夏の上堂に云く、正令提綱す、飲水の鵞、能く淳味を取り、一線の道を通じ、華を採る蜂、余香を損せず。布袋、自恣開口す、十方世界も也た、一時に自恣開口す。蒲団...令和3年度盂蘭盆会の記事(8・道元禅師の自恣観)
道元禅師(1200~1253)が最後のご病気を発病されたのは、ご遷化される前年の10~11月頃だったと推定されている。その上で、永平寺の後継者をどうするかについては、思慮されていたと思われる。無論、どなたに嗣いでいただくかは決まっていたと思うが、そのタイミングなどを思慮されたのではないかと思われるのである。結果として、住持の座を譲られたのは、ご遷化される約1ヶ月前であった。伝記的記述としては、以下の一節をご覧いただきたい。建長五年癸丑七月十四日、即ち住持の位に著く。夜間に小参し、早朝に上堂す。元公和尚、病床に臥し乍ら、輿に乗りて来たりて聴聞、証明す。『三祖行業記』「懐奘禅師章」このようにあって、懐奘禅師(1198~1280)は建長5年(1253)7月14日に永平寺の2代目住持に就位された。ただし、それからわずか...7月14日懐奘禅師が永平寺の2代目住持に就任
仏教といえば、お寺とか仏像を観光して見に行く程度のイメージなんだけど、でもそもそも、2500年前にお釈迦さまがおられた時代の仏教教団って、霊的修行をしてなかったのかなあ?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『エクソシスト入門──実録・悪魔との対話』(幸福の科学出版)で、次のように説いておられます。仏典を読むと、現在の墓場に当たる「死体置き場」で瞑想修行をしていたことが分かります。墓場といっても、当時のインドでは、日本にあるようなお墓がたくさん並んでいるわけではなく、大きな穴を掘った所に死体をただ投げ込んでいくだけの土葬でした。また、土葬まで行かずに、鳥葬というか、死体を野ざらしにして鳥や動物に食べさせるようなかたちもありました。(中略)当時のインド人にとっても、あまり気持ちのよいもの...釈迦教団の霊的修行って?
以前、【盂蘭盆会雑記―盆踊りの起源とは?】という記事を書いていて、盆踊りの起源を目連尊者に定める向きがあることを指摘したが、また、同じような記事を見つけてしまったので、記事にしておきたい。亡母を追悼供養する為に目連が衆僧と共に或は舞ひ、或は躍りたるが盆踊の濫觴であると云はれてゐるが、仏の来光を希ふ為に、又は仏の来光を歓喜する為に躍る舞踊であるとも言ひ伝へられてゐる。天野藤男『鎮守の森と盆踊』文原堂書店・大正6年、142頁こちらでもやはり、盆踊りの起源を目連尊者に定めている。この辺は既に、先に上げたリンク先でも申し上げた通りで、『盂蘭盆経』の末尾に、「爾時、目連比丘及び此の大会の大菩薩衆、皆な大歓喜す」や「爾時、目連比丘、四輩の弟子、仏の所説を聞きて、歓喜奉行す」とある通りで、仏説を聞いて歓喜したことが、踊りを踊...令和3年度盂蘭盆会の記事(7:盆踊りの起源再考)
日本では一部地域で盂蘭盆会になったので、『盂蘭盆経』を勉強してみようと思ったのだが、その過程で面白い経典を見出した。特に、中国の大蔵経の目録である『開元釈教録』を見てみたところ、以下の一節があったのである。報恩奉盆経一巻〈盂蘭盆経と同本なり〉『開元釈教録』巻3うん?『報恩奉盆経』というのがある?確かに題名だけを見れば、「報恩に盆を奉る経」とあるから、「盆」に食事を載せて施食するような印象であろうか?それで更に調べてみたら、『大正蔵』巻16に入っていて、現代であれば容易に本文が見られるので、読んでみたわけである。この『仏説報恩奉盆経』については、「亦た報像功徳経と云う」とも併記されているのだが、『盂蘭盆経』ではないのか?それから、「大蔵経」には『大正蔵』には「報像功徳経」という名前の経典は入っていないようなので、...令和3年度盂蘭盆会の記事(6・『盂蘭盆経』の異本)
今日7月10日は、語呂合わせで「納豆の日」である。その日に因んで、以下の偈頌1首を見ておきたい。納豆を贈るの韻に和す糲飯藜羹に芥薑無し、貧家寂寞として陰を送ること長し、故人の恩露一筐賜る、飢腹膨脝して風味香しし。『円通松堂禅師語録』巻2「偈頌」、『曹洞宗全書』「語録一」437頁上段まず、この語録は現在の静岡県掛川市内に所在する円通院の松堂高盛禅師(1431~1505)の語録である。よって、内容は、中世室町期の曹洞宗に関する教えであると理解して良い。更には、どなたかが松堂禅師宛に「納豆」を贈ってくれて、しかも漢詩も添えられていたようなので、それに和して、お返しの偈としたものだろう。上記の一偈から、中世の曹洞宗で「納豆」という語句が用いられていたことは明らかなのだが、これが、発酵食品としての「納豆」なのかどうか、確...今日は納豆の日(令和3年度版)
【前回の記事】で、灯籠について論じたが、やはり盂蘭盆会での「灯籠」といえば、「灯籠流し」を想起される方も多いと思うので、その記事を書いておきたい。なお、灯籠流しについて、最近では環境負荷の問題などから実施を控える自治体などが増えているともされ、今後は消え行く行事なのかもしれない。さておき、「灯籠流し」について指摘された文献を幾つか見ておきたい。灯籠流〈一名舟コ流シ〉八月十六日の盂蘭盆会には盛岡の行事の一として灯籠流しの催がある。這は亡き人の法名及六字の名号を記した五色の無数の小旗を本船稾船に樹て、これに沢山の灯籠提灯供物等華やかに装ひ、涼しい風の立ちこめる頃、車又は人手によつて引出される。とりわけ盛んな場所は北上川明治橋の辺で、昔は河開きを兼ねて起つた行事らしいが、近年は僅かにその名残を留めてゐるに過ぎない。小...令和3年度盂蘭盆会の記事(5・「灯籠流し」雑考)
ところで、【前回の記事】に関連して、盂蘭盆会で荘厳に用いる灯籠というか、灯明の話をしたのだが、関連した問答を見付けたので確認しておきたい。問ふ、盂蘭盆に仏前に灯籠を燃す経証如何、答ふ、阿闍世受決経に見へたり、因果経鈔下見聞随身鈔に引が如し、諺に長者の万灯より貧者の一灯と云、是なり。爾ば仏在世の儀を慕ひて灯籠を燃と見へたり。長岡乗薫編『通俗仏教百科全書(第3巻)』顕道書院・明治25年、232頁これを読んで、最初はなるほど、とは思ったのだが、よくよく考えてみると、これは「盂蘭盆」に関係があるのではなくて、あくまでも「仏前」に灯籠を灯す意義について論じただけである。なお、『阿闍世受決経(『大正蔵』巻14では『阿闍世王授決経』)』は、いわゆる「貧者の一灯」の典拠として有名だが、決して「盂蘭盆」と関係がある話ではない。そ...令和3年度盂蘭盆会の記事(4)
盂蘭盆会の法要について、これまでの祖師方がどのような法語を残しておられるかを調べてみたのだが、意外なほどに見付けられなかった。一方で、施食の法語は多数を確認したので、どうやら、祖師方は、宗門伝統の「盂蘭盆施食会」の形式に則って法要を行われ、そのため、「施食」の法語が多数詠まれる一方で、盂蘭盆会の法語が少ないということだったと理解した。とはいえ、盂蘭盆会の法語が全く無いわけではないので、今日はそのような法語の一つを見てみたい。盂蘭盆灯籠を点して薦抜す本光爍破す灯明仏、三世十方塵を隔てず、蠢動す含霊の瑞此の如し、荘厳の報地自ずから鮮新たり。面山瑞方禅師『永福面山和尚広録』巻8、『曹洞宗全書』「語録三」巻・397頁下段、訓読は拙僧まず、「薦抜」というのは、死者のために追薦し、その苦悩などを抜くことである。そして、詠ま...令和3年度盂蘭盆会の記事(3)
今日七月七日は七夕である。拙僧の出身地である宮城県仙台市は、月遅れの七夕で8月7日に行われていたが、とりあえず今日に記事を書いておきたい。それで、七夕に関する興味深い一節を見付けた。◎七月和名をふ月といふは、たなばたに文をかすとて、ひらくゆへにふみ月とも、文ひろげ月とも云。享保20年版『江府年行事』、三田村鳶魚先生編『江戸年中行事』中公文庫・47頁「ふ月」とあるが「文月(ふづき)」のことである。そして、その由来が「七夕」にあるとしているのである。七夕で短冊に願いを込めるというのは、かなり重要なことだと思われていたのだろうか。上記に引用した同じ文献では、以下の一節も提示している。○本朝にては孝謙天皇天平勝宝七年に乞巧奠はじまる、此日童子小女のわざに、五色の紙を色紙たんざくにたち、歌を書て若竹の笹にむすび、高くさゝ...7月7日七夕の節句(令和3年度版・拙ブログ開設から6,000日)
ちょっと前のだけど、映画『仏陀再誕』には、2500年前に、菩提樹の木の下でゴータマ・シッダールタが悟りを開いて仏陀となったときのシーンがあったよね。で、仏陀が帰天(入寂)されたときには、どんな悟りを得てたの?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。釈迦入寂のとき、すなわち、釈迦八十歳のときの悟り、心境を、彼自身の内心の声を文字として、お伝えすることにします。クシナガラの沙羅双樹の木の下で、右腹を下にして、右腕を頭の下に折りしいて、左手を病んでいた腹部にあてながら、涅槃に入りつつあったとき、つぎのように考えていたのです。「私は三十五歳で悟りをひらいて以来、四十五年間、善を探究し、正理とは何かを説いてきた。しかし、その私にも、ついに、肉...仏陀入寂のときの悟りって?
もうここ何年も、「7月6日は、語呂合わせから南無の日」だと訴えている拙ブログではあるが、浸透している気がしない。でも、それは拙僧の調べ方が悪いだけで、徐々にでも広がっていることを願ってはいる。さておき、そもそも「南無」とはどういう意味なのだろうか?一般的には、サンスクリット語の「ナモ(namo)」を音写(そういえば、「ナマス」とかともいうけど、音遠くない?)したものとされ、意味は「帰命」や「帰趣」と同じだとされる。南無悲華経に云く、仏言わく、南無とは、此れ決定せらる、諸仏世尊の名号音声なり。○唯識鈔に云く、梵語の南無、此に翻じて名と為す。即ち是れ帰趣の義なり。或いは云く、那摩。或いは、曩謨。皆な梵音の訛なり。『釈氏要覧』巻中とりあえず、中国で編まれた仏教辞書的な役割を持つ『釈氏要覧』を参照してみたのだが、『悲華...7月6日南無の日(令和3年度版)
今日7月5日は、旧暦の日付で言ったら、明庵栄西禅師(1141~1215)が御遷化された日である。さて彼僧正、鎌倉の大臣殿に暇申して、京に上りて、臨終仕らんと申し給ふければ、御年たけて、御上洛わづらはしく侍り。いづくにても御臨終あれかしと仰せられけれども、遁世聖を、世間にいやしく思合ひて候時に往生して、京童部に見せ候はんとて上洛して、年号は覚悟し侍らず、六月晦日説戒に、最後の説戒の由ありけり。七月四日、明日終るべき由披露し、説法めでたくし給ひけり。人々最後の遺戒と、哀れに思へり。次日、勅使たちたりけるに、今日入滅すべき由申さる。門徒の僧共は、よしなき披露かなと、あやぶみ思ひける程に、其日の日中、倚座に坐して、安然として化し給ひけり。「三建仁寺の本願僧正の事」、無住道曉禅師『沙石集』巻10、岩波文庫本下巻163頁こ...7月5日栄西禅師忌(令和3年度版)
7月になったが、日本の一部地域では盂蘭盆会となる。一部地域とは、東京・神奈川東部、山形の一部、静岡の一部などであり、他の大多数は8月となっている。昨年は新型コロナウィルス対策で、お盆の行持も大幅な縮小をせざる寺院も多かったと側聞するのだが、今年度はどうなるだろうか?高齢者の方々は、ワクチン接種も進んでいるようだが、まずは無理の無い範囲でご供養いただければと願う。ということで、例年この時期は、盂蘭盆会に関する雑多な記事をアップするようにしているのだが、今日は以下の一節をご覧いただきたい。七月一日より、施餓鬼。結縁看経牌、便宜の所に之を出だす。牓に云く、法王解制の辰、衆僧自恣の日なり。行道周円して、功徳成就す。此の時に当たりて、釈尊は忉利に於いて説法し、大術の恩に報い、目連は盆器に食を設けて、悲母の苦を救う。鳴呼、...令和3年度盂蘭盆会の記事(1)
「宝慶元年七月初二日、方丈に参ず」から始まる通り、道元禅師が中国で留学中に、天童如浄禅師から受けた教えを書き残された紙片を、入滅後に法嗣の懐奘禅師が見出して書写された文献が『宝慶記』である。この文献の伝来は、懐奘禅師書写本が残ることもあって、だいたい確定しているところもあるのだが、書誌学的な見解について、江戸時代の学僧・面山瑞方禅師が以下のようなことを書き残しておられる。余十有六歳、親教師前永平遼雲峰和尚、手書する所の本を以て之を賜り、且つ告げて謂わく、此れは是れ、広福大智禅師の手沢を謄せるなり。我れ今、汝に授く。之を帯びて永く学道の標準と為せ、と。爾して以来、行脚に曩蔵し、住山に篋秘し、今に到るまで半百余年、侍者と雖も亦た許して視せしめず。間、他の類本を持するを看るに、倒写亥豕、脱字も一ならず、或いは時に眉を...宝慶元年七月初二日方丈に参ず
今日は7月1日であり、半夏節である。5月15日(旧暦の頃は4月15日)に始まった九旬安居の内、ちょうど半分が今日なのである。両祖の語録に「半夏節」の説示は残されていないようだが、行っていなかったわけでもあるまい。以下の記述も知られる。六月一日、半夏節と称す。若し上堂ならば、次でに坐禅を放下する由を報ず。即ち随意坐禅なり、打鈑せざるのみ。『瑩山清規』「年中行事」項瑩山禅師の頃は、もちろん旧暦であるので、6月1日が「半夏節」であった(4月15日結制、7月15日解制)。そのことを、上記の通りお示しになられ、しかも、道元禅師も採り入れておられた6月1日の「坐禅の放下」について、その内容を大衆に向けて開示すべきだと仰ったのである。そこで、両祖の頃は、半夏節の説法というよりも、6月1日の「坐禅の放下」の開示が行われていたが...今日は7月1日半夏節
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