今日、12日は私の73歳の誕生日です。 最近Youtubeで年金動画を時々観ますが、年配の男女が年齢を聞かれて答えるに『83歳』、『86歳』、『89歳』などと、何事もなかったかのように淡々と答える老人たちの様子を拝見して、彼等からみたらまだまだ若造の域を出ない私は、何か感慨深いものを感じるのです。 還暦を過ぎたとき、『片足は棺桶にあり』…と、いつ死んでもおかしくない年代に突入したと自覚して以来、毎年毎年の自分の誕生日を『自祝』する気持ちというのが、だんだん強まっている気がしているので、世のジジババ様方が平然と(中には誇らしげに)自分の年齢を答える裏には、それぞれに長い人生ドラマがあったことを想…
芙蓉道楷禅師の言葉は続きます。たとえ今迄述べて来た様な生活をしたとしても、当山においては生き生きとした生活が欠ける事なく具わって、周囲の景色も決して見ごたえのないものではない。花は年々に咲き鳥は年々に歌う事を知っている。周囲の木々は素晴らしい情景を見せ時々の音を立て、石も素晴らしい姿を見せてくれる。 遠くに見える青い山は遥かにけむり泉も静かに奏でている。嶺の上では猿が鳴き、真夜中の月が潤んだような...
じつは、私の二十代はひたすら『写撮道』に捧げ、自称『撮人家』というほど、写真のテーマは『人間』一本、白黒で、フイルム現像から引き伸ばし現現像まで全部自分でやっていた。 私の写真では喰えない…という自覚をした28、9歳の頃、人生の滑り止め的意味もあり、手に職を・・・という狙いもあって、鍼灸専門学校に入学するのだが、東洋の追求は医学にとどまらず、師匠の勧めもあって禅を始めたところ、学友の誰よりも熱心に坐禅をするようになり、最後は、鍼灸も、写真もどちらかというとうっちゃった風で、ひらすら坐禅する青年であった。 そういったようなことで、30代後半から、50歳代まで、『写撮道』から離れていたが、50代で…
芙蓉道楷禅師の言葉は続きます。説法を聞いている諸君よ。この様な仏道修行(坐禅)をやる事によって真実を掴むならば、それこそ欠けるところのない人物と言う事ができる。そして坐禅の修行を通じて体験的に真実を掴む事がないならば、今後大いに努力が必要ではないかと甚だ心配である。 拙僧は仏道修行におけるこれと言った徳行や業績もないまま、恐れ多い事ではあるが寺院の住職として生活している。何もしないで寺院の財産を...
先週初めに、3日間毎日9kmほど歩き、最後の日に食材の運搬に手を出さなくてもいいのに「手助けのフリ」したオカゲか何かで右足の膝が「ガクン」。今日で5日目の「家…
芙蓉道楷禅師の言葉は続きます。過去における隠山に住んでいた龍山禅師は亡くなるまで、人と顔をあわせる事がなかった。趙州禅師は亡くなるまで仏道修行を口先だけで説明される事はなかった。匾擔暁了禅師はしば栗の実を拾って食べ物とした。大梅法常禅師は蓮の葉使って衣服とした。紙衣道者は紙を衣服とした。南嶽玄泰上座は植物繊維の衣服のみを着た。玄太という長老は植物でできた繊維だけを着た。石霜禅師は枯木堂と呼ば...
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